映画『インサイド・ヘッド』に見る「人間の記憶」に関する誤解
私たちは多くの映画から、人生や恋愛、さらには精神の働きまで、基礎的な心理学の知識を想像以上に得ることができる。この意味で、映画は強力なストーリーテラー(物語の語り手)になり得る。映画が私たちの世界観を形作ることもあるし、場合によっては、価値ある知恵や知識を授けてくれるケースもある。しかしながら、ハリウッドから得られるすべての教訓が正確とは限らず、その正確度には作品によってかなりのばらつきがある。 実際、人間の心理に関する、まっとうな知見を提供する映画がある一方で、完全な誤解に基づいてストーリーが構築されている作品もある。銀幕から私たちが学んだ心理学的概念のうち、事実に基づいているもの、逆に完全なフィクションであるものは、それぞれいくつくらいあるのだろうか? この記事では、そうした例として2つの映画を取り上げる。どちらも、読者のみなさんはきっとご存知で、愛してやまない作品であると言う人もいるはずだ。しかし心理学的に見ると、率直に言って、まったく正確ではないところがあるのだ。 ■1. 『インサイド・ヘッド』(2015年) 『インサイド・ヘッド』(2015年)は、広く愛されているファミリー向けのディズニー映画だ。11歳の女の子、ライリーが、新しい街に引っ越すという人生の一大事を経て、さまざまな感情を体験する様子を描いたアニメ作品だ。 この映画は、彼女が体験する怒涛のような感情の波を、独創的な形で描いている。すなわち、彼女が感じる感情が、彼女の頭の中に住む5つのキャラクターとして描かれているのだ。名前は、「ヨロコビ」「カナシミ」「イカリ」「ビビリ」「ムカムカ」だ。 特筆すべきは、記憶が、物語の中核を為す役割を与えられている点だ。映画の中で記憶は、ライリーの体験を保存する「光る球」として描かれている(劇中では、「思い出ボール」と呼ばれる)。 これらの記憶は、まばゆく輝く、整然と並んだボールとして映像化されている。これらのボールは、ライリーの脳内の所定の場所に、きっちり整理された形で保管されていて、喜びや悲しみなど、それぞれが示す感情ごとに無限に続く列に並べられている。 また、これらのボールは、英語で言うと「shelf-stable(常温保存可能)」、つまり、棚に常温で置かれてもそのまま保存されるものとして描写されている。さらに、必要になればいつでも容易にアクセスできるが、同じくらい容易に、完全に失われてしまう可能性もある。 こうした記憶の描写は、心温まるもので、なおかつスリリングであるのは間違いないが、人間の脳内で記憶が機能する仕組みは、実際には、この映画で描かれているよりもはるかに複雑で、このようにわかりやすいものではない。 この描写について、米ラファイエット大学のジェニファー・タラリコ教授(2015年当時)は、ザ・カンバセーションの記事において、「これは、わかりやすい記憶の視覚的メタファーかもしれないが、実際の記憶のメカニズムを反映しているわけではない」と指摘している。 心理学者や神経科学者は、かなり以前から、記憶が脳内の単一の場所に、安定した実体として整然と保管されているというイメージは誤りだと指摘してきた。学術誌Current Directions in Psychological Scienceに掲載された研究結果によると、記憶は、複雑に体系化されたネットワークとして、脳全体に広がっているという。 タラリコ教授は、さらに詳しく、以下のように説明している。「研究者たちは、出来事の構成要素は、個別の神経モジュールによって処理されると考えている。私たちの脳は、基本的な認知機能に関して、個別の体系を持っている。具体的には、視覚、聴覚、言語、感情などに関するものだ」 「記憶を復元させる時、私たちは、これらのできごことを構成する要素の断片から再構築している」と、同教授は解説する。すなわち、映画に描かれているように、記憶のボールを「認知の棚」から簡単にピックアップすることはできない、ということだ。むしろ私たちは、自身の神経系に保存された断片から、記憶を再構築している。この再構築に際して、記憶していたものを心の目で見て、心の耳で聞き、それに関連する感情をもう一度感じるというわけだ。 タラリコ教授はこう結論づける。「こうした再構築のプロセスは、自分を取り巻く世界に関する知識、今抱いている思考や心情、そして今抱えている目標から、影響を受けている。ゆえに、何年ものあいだに私たち自身が変化していくのと同じように、記憶も、時の経過とともに変化する可能性がある」 というわけで、『インサイド・ヘッド』は、確かに人をとりこにする、共感できるストーリーを展開しているものの、人間の複雑な記憶のありようについては、その描写はあまりに単純だ。現実には記憶は、私たちがスクリーンで見ている映画よりもはるかに動的で、誤っている可能性をはらみ、自ずと変化するものなのだ。