高校の先輩・山崎福也を目標に、常廣羽也斗からのメッセージも胸に リスク恐れず「プロ一本」で勝負の青学大左腕
投手としての分岐点となった、リーグ戦登板ゼロのシーズン
児玉はその年の8人のスポーツ推薦枠の中で、最後に決まった。全国の強豪校出身でもなかなか入れない狭き門だということは、入ってから知った。「そんな中に自分を選んでもらえたのかと、誇らしかったですね」と笑う。 デビューは1年秋のリーグ戦。リリーフで3試合に登板している。経験のためのワンポイントなどではなく、接戦を任され、行けるところまで行く第2先発のような起用法。球数が90球近くなるロングリリーフもあれば、好投しながら延長戦で痛打を浴びて敗戦投手になったり、四死球を連発して1死も取れずに降板したりすることもあった。それでも神宮のマウンドを経験し、吸収したものは多かった。 「厳しい試合に起用してもらう中で、高校の時よりも自分のレベルが上がった。東都リーグのレベルに追いついているのかな、と思えました」と児玉は振り返る。 続く2年春のリーグ戦では先発として起用され、計7試合に登板。2勝を挙げた。ストレートもチェンジアップも、「キャッチャーの構えたところに、腕を思いきり振って投げ込んでいただけ」と言う。だが、もともと投球フォームに独特の間を持っているため、打者はタイミングが取りづらく、空振りしたり凡打になったりしていた。 「相手チームにはまだ僕のデータがなかっただろうし、後ろ(リリーフ)に力のあるピッチャーがいたので、ペース配分など気にせず打者一人ひとりを打ち取ることだけを考えていました」 投手として大きな分岐点になったのは、意外にもリーグ戦の登板がゼロに終わった2年秋だという。前シーズンに力強く1歩目を踏み出し、着実に次のステップにつなげるつもりだったが、思わぬつまずきとなった。夏場からなかなか調子が上がらず、オープン戦でも結果が出ない。他の投手が良かったので出番がなくなった。「すごくふがいなかったし、もっと力をつけなくてはと思いました」と言う。 当時は「プロに行くにはスピードが大事」といった声をうのみにし、もっと速い球を投げようと思って、自分の良さを見失った。日頃から指導を受ける中野真博コーチには、「間がなくなっている」と指摘された。「140キロが145キロに見えるような力感で投げろ」というアドバイスの意味が、最初はよく分からず、ただ軽く投げていた。3年生になってようやく、その感覚が少しずつ分かり始めた。