[麻布競馬場]令和の米騒動 秋田の八郎潟でカレーライスの夢を見る
「お米の旅なのに、小麦からスタートしていいんですか?」 「大丈夫、八郎潟に行けば分かるから」 不安な僕とは対照的に、先輩は余裕の表情を保ったままだ。奥羽本線で最寄り駅まで行き、そこからは手配していたタクシーで西へ向かう。残存湖、と呼ばれるほとんど川みたいな幅員の水面を越えると、日本のものとは思えない真っすぐな道が延々と続いている――ここが八郎潟干拓地だ。 ●頂上が海抜0mの山に登る 琵琶湖に次ぐ、日本で2番目に大きい湖が姿を消した。かつては広々とした汽水湖であった八郎潟の干拓事業は江戸時代からたびたび計画が浮上し、そのたび財政的な理由などで頓挫していたものの、戦後の食糧難を解決するための一大国家事業としてようやく実施が決まり、昭和32年にはついに着工となった。浚渫(しゅんせつ)船をいくつも走らせ、そこで集めた湖底の砂で堤防を築いて水を抜く(埋め立てと干拓のもっとも顕著な違いは、この「水を抜く」という点にある)。言葉にするときわめて単純に思える一連の作業がいかにダイナミックで、そしていかに困難であったか、干潟の西端にある大潟村干拓博物館に行けばすぐに理解してもらえるはずだ。 とにかく、かつて八郎潟があった場所には大型トラクターやヘリコプターを用いるアメリカ式の大規模農地が整備され、夢を抱いた入植者が続々と集まった。昭和43年には第1次入植者による初の本格的な営農がスタート。もちろん、主力作物は日本人の主食である米だ。食生活の変化によって昭和30年代後半から米の需要量はピークアウトを始めており、昭和45年には減反政策が始まるだなんてことを、きっと当時の彼らは知る由もなかっただろう。 博物館に向かう道中、大潟富士なる山に出くわした。山と言ってもいっても標高4mもない小ぶりな人工山で、頂点がちょうど干拓前の湖水面の高さ、つまり海抜0mになるよう調整されているらしい。23段の階段をあっという間に駆け上がり、山頂から八郎潟干拓地を眺めるとみっしりと生い茂った青草が一面に広がる平坦な大地を覆い、風に吹かれてゆるやかに揺れている。都会に暮らす農業素人の目には見分けがつかないが、田畑複合経営の号令のもと、水田を大豆や小麦のための畑に切り替えた農家も多いそうだ。空腹を丼いっぱいのごはんで満たしたい――そんな純粋な夢の終着点を、そして日本における米作の歴史を象徴する光景を、僕はジリジリと焦がすような日差しの中で数分間、黙って眺めていた。