かわいがっていた小型犬「ポス」がいなくなった。悲しむ私に母は言った「ポスは戦争に行ってお手伝いをするのよ」【証言 語り継ぐ戦争】
戦時中、親子3人で長崎県佐世保市に住んでいた。父が海軍工廠〔こうしょう〕の技術者で、飛行機の部品製造にかかわっていた。兵器研究の冊子、部品の計算をしたとみられる書類が今も手元にある。 母は、父に対して「お国(鹿児島)に帰ったとき肩身が狭いから、1回は戦地に行ったほうがいい」と話していた。父も志願したようだが、工廠は父がいなくなると困るからか、望みはかなわなかった。 私は1943(昭和18)年、6歳のとき国民学校に入学した。しょっちゅう警戒警報、空襲警報のサイレンが鳴っていた。家の後ろには横穴防空壕〔ごう〕があった。入り口に鉄のドアがあって、外から中は見えない造りになっていた。 路上で警報が鳴ったら溝に入って腹ばいになる。教室だったら机の下。防空頭巾をかぶって登校した。服は緑がかった茶褐色で、国防色といわれていた。学校で赤と白の手旗信号を習い、高学年女子はなぎなただった。当時の通知表に陸軍や海軍の記念日の記載があるが、学校で祝った記憶はない。軍歌のようなレコードは家にいっぱいあった。よく歌っていた「愛国行進曲」は今でも歌える。
母は教師で共働きだったので、比較的裕福だった。国民学校に入る前は、幼稚園に通い、母とよく喫茶店に行った。父の友人が配給所で働き、母の教え子の家がお菓子屋さんで、お米や衣類、砂糖やバナナに不自由しなかった。 ただ、戦況が悪化すると、綿入れや座布団などを供出させられた。一番悲しかったのは家の中で飼っていた小型犬が取り上げられたことだ。名前は「ポス」。いつも母の背中に喜んで飛び乗っていたのに、最後のときは何かを察したのか、なかなか言うことを聞かなかった。 当時、母は私に「ポスは戦争に行ってお手伝いをするのよ」と言っていたが、後になって、兵隊の食料になったという「真実」を聞かされた。 80年ほど前の記憶だから、その後に見聞きしたことと混ざっているところもあるかもしれないが、今も強い現実感を持ってよみがえる。 45年8月9日。長崎市に原爆が投下された日、空襲警報を聞いた私は防空壕の中にいて、少し開いていた鉄のドアが爆風でバァーンと閉まった。爆心から70キロほど離れた佐世保での原爆被害を聞いたことはないが、なぜか耳と体があのドアの閉まる音を覚えている。
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