【このニュースって何?】ユニチカが繊維事業を売却へ → 産業に時代の流れってあるの?
日々のニュースの中に「学び」のきっかけがあります。新聞を読みながら、テレビを見ながら、食卓やリビングでどう話しかけたら、わが子の知的好奇心にスイッチが入るでしょうか。ジャーナリストの一色清さんがヒントを教えます。
明治時代から長く輸出の主力だった繊維産業
かつては日本の繊維産業の中心的存在だったユニチカが繊維事業などを外部に売却して再建を目指すと発表しました。赤字事業を続けてきた結果、資金繰りが困難な状況になっていたそうです。 ユニチカは1889(明治22)年に尼崎紡績として創業した歴史のある企業です。1918年以降は国内3大紡績のひとつである大日本紡績として、日本の繊維産業を牽引(けんいん)してきました。69年には日本レイヨンと合併し、社名をユニチカに変えました。ただ、ユニチカになったころから、日本の繊維産業は世界の中で競争力を失い始めました。そして、とうとう繊維事業と決別することになったわけです。 産業には時代の変化に伴う栄枯盛衰があります。今回は日本の産業の栄枯盛衰を振り返ってみたいと思います。 まず、繊維産業ですが、明治時代以降長く日本の輸出産業の主力でした。蚕(かいこ)からとれる生糸やその製品である絹織物から始まり、綿花や羊毛を輸入して綿糸や毛糸にし、さらに綿織物や毛織物として輸出していました。戦前にはこうした繊維品の輸出が日本の全輸出品の半分以上を占めていました。 太平洋戦争で日本の産業は壊滅的被害を受けましたが、50~53年の朝鮮戦争の特需によって多くの産業が勢いを取り戻しました。繊維産業もそのひとつです。このころには、アメリカで開発されたナイロンなどの化学繊維の需要が高まっていました。日本の繊維企業も天然繊維から化学繊維に重点を移して急成長しました。60年には日本の全輸出品に占める繊維品の割合は約3割にまで高まりました。繊維産業は成長産業だったのです。65年にリクルート社がおこなった文科系大学生の就職人気企業ランキングの1位は、繊維企業の東洋レーヨン(現・東レ)でした。 このころ、日米繊維摩擦が起こりました。日本の繊維品の輸出がアメリカの繊維産業を衰退させているとして、アメリカ政府が日本政府に交渉を求めたのです。日本政府は72年、アメリカの主張を受け入れ、自主規制という形で業界に輸出規制をのませました。この日米繊維交渉は沖縄返還交渉と時期的に重なっていたため、「(日本政府は)糸を売って縄を買った」などと揶揄(やゆ)されました。 そして日本の繊維産業は下り坂になりました。繊維産業は多くの工場労働者を必要としますが、日本経済が成長するのに伴い人件費が上がり、中国や東南アジアの国に人件費などのコスト面でかなわなくなっていったのです。大手メーカーの多くは、繊維品の比重を落とし、フィルム、医薬品、炭素繊維などの非繊維分野に力を入れて乗り切りました。しかし、ユニチカはそうした転換がうまくいかず、今回の事態を招きました。60年代には日本に170万人ほどいた繊維産業の従事者は今では20万人ほどに減り、日本の輸出全体に占める繊維品の割合は1%程度になっています。