「10・10空襲」旧那覇市街地が1日で焼け野原「アメリカにはかなわない」…自宅や女学校も焼け落ちた
沖縄戦前年の1944年、米軍が沖縄本島や離島を広範囲に攻撃した「10・10空襲」から10日で80年となる。旧那覇市街地の約9割が焼失したことが知られているが、旧日本軍の飛行場や港も機能不全に陥った。安全保障環境が厳しさを増す今、体験者は当時の惨状を思い起こし、平和への願いを強くしている。(島田愛美) 【地図】10・10空襲当時の旧那覇市周辺
7日、沖縄県豊見城市の瀬長島の高台。「ここから空襲でやられた飛行場を見た。初めて『戦争』を目の当たりにした瞬間だった」。島出身で当時5歳だった同市の上原芳雄さん(85)は、発展した那覇空港の滑走路を見下ろし、振り返った。
その日は朝から水辺で遊んでいた。「バーン」と爆発音が聞こえ、島民と防空壕がある高台へ上った。那覇空港の原型で旧日本海軍が整備した小禄飛行場を見ると、滑走路が所々黒く焦げ、戦闘機の残骸3機が横たわっていた。
戦局悪化に伴い、大本営は南洋戦線の中継地とするために同飛行場を拡張し、南西諸島の飛行場設営を進めた。しかし、米軍は日本側の補給路を断つために空襲を決行。同飛行場や那覇港は早朝の第1次攻撃から激しい空襲を受けた。
上原さんは防空壕内で攻撃がやむのを待った。壕の真上には海軍の高射砲陣地があり、迎撃のたびに繰り返される轟音に身をこわばらせた。
空襲は離島の飛行場や港も攻撃対象とした。母ときょうだい7人は無事だったが、石垣島に徴用された漁師の父は輸送船に乗っていて撃沈された。任務を終え、1年ぶりに瀬長島へ戻る途中だった。
翌45年3月に始まった沖縄戦では15歳の次兄が艦砲射撃の犠牲になった。戦後、瀬長島は米軍に接収され、77年に返還された後も集落は復活しなかった。「戦争に家族も古里も奪われた」
上原さんは小学生の頃から親戚の地引き網漁を手伝い、家計を支えた。人望が厚かった父の面影を追って水産高校に通い、漁師となった。
戦後80年を前に、国は台湾有事などに備えて自衛隊などが円滑に利用できるよう特定利用空港・港湾の整備に着手した。県内では那覇空港と石垣港が指定され、上原さんは「当時と状況が似ている」と話す。「備えは重要だが、戦争では空港や港が狙われることも忘れてはいけない。平和な関係を築く努力にも力を入れてほしい」と願う。