「精神科で拘束・薬漬けの男性が鼻歌交じりに畑仕事をするまで回復」83歳・現役看護師が運営する介護施設の凄さ
■定年を機に、故郷の松本・四賀へUターン 今でも看護師はハードな仕事というイメージだが、当時はもっと大変だった。一日中、立ちっぱなしで診察の補助や患者の世話をし、深夜勤務などもある交代制。休みもなかなか取れない中、夫と協力しながら二人の子育てを両立してきた。 それでも看護師には、大きなやりがいがあった。夫の転勤で、広島から静岡に移り住んだあとも看護師を続け、37歳からは看護学校の教員に。定年まで23年間勤め上げ、1000人以上の看護師を送り出してきた。 そんな江森さんが生まれ故郷の松本・四賀へ足を運ぶようになったのは、56歳の時だ。実家を継いだ兄夫婦の農作業を手伝うために、片道4時間かけて週末農業に静岡から通うようなる。久しぶりにゆっくりと実家で土に触れる作業をしていると、自分が生き返るような感覚を覚えるようになった。 「田舎では、こんなに呼吸がしやすいんだ。ここには酸素がある、ってね」 同時に目に入ってきたのは、村の元気な高齢者たちの姿だ。年齢をものともせず、生き生きと農作業をする姿は、見ているだけで元気をもらえるようだった。気がつくと、カメラを持って、そんな高齢者の写真を撮りに行く「追っかけ」になっていたという。 そうこうするうちに、「やっぱり四賀での暮らしがいい」とUターンを決断。地元を離れてすでに44年。移住者のような気持ちで、舞い戻ってきた。そのとき頭に浮かんだのは、自身の看護師生活の集大成として、高齢者介護に取り組みたいという思いだ。
■峠の外れにある公民館を改修したデイサービス 江森さんは、峠の外れにある、使われていない公民館を改修。小規模宅老所、いわゆるデイサービスとして「峠茶屋」を開設。「峠茶屋」という名前には、人生の厳しい峠を乗り越えてきた高齢者が、最後の安らぎの場として「ここらで一服してほしい」という願いを込めた。江森さんの退職金の約半分を投資した「峠茶屋」の理念は、「住民が主人公、主体は利用者」が理念だ。 当時はまだ「認知症」という言葉が一般的ではない時代。高齢になり認知症状が出てきた人は、「変な人」「困った人」として扱われていた。家族はそんな認知症高齢者を周囲から隠そうとするが、当の本人は外に出たがる。その行き違いが、さまざまな軋轢を生み、困り果てる家族も少なくなかった。自宅では見きれないのでデイサービスを、と思っても、そこに通わせていることを周囲に知られたくないと考える家族が多かったのも、状況を悪化させていた。そんなときに人目につきづらい峠の外れにできたのが、峠茶屋だった。 「最初の1カ月こそ利用者がゼロで、どうなることかと思いましたが、徐々に口コミで増えていくように。誰にも知られず通わせられるから、というご家族が多かったですね」 ここから江森さんの介護にかける人生が本格的にスタートする。認知症高齢者に向き合うことは、「毎日がドラマの連続だ」と江森さんは言う。 頑固者で村では嫌われ者で通っていたある高齢者は、その気性の荒さにどの施設からも断られるほどだった。峠茶屋で預かってくれないか。そんな相談に、江森さんは「もちろん、いいですよ」と即答する。 「利用者を増やしたいという、経営の切実な部分もありましたが、何よりもどんな人にも寄り添いという気持ちが強かったですね」 混乱と不安のさなかにある高齢者に根気よく寄り添ううちに、高齢者自身が穏やかに変化していく。 「峠茶屋に通うようになって、あのじいさんがすっかり穏やかになった、って噂になるくらい。そして、そんな私たちの姿勢を地域の人たちはちゃんと見ていてくれた。今の私たちがあるのも、住民から支えてもらってきたからです」