「精神科で拘束・薬漬けの男性が鼻歌交じりに畑仕事をするまで回復」83歳・現役看護師が運営する介護施設の凄さ
「老いも、認知症も、ありのままでいい」。そう語りながら、生まれ育った地域で介護施設を運営するのは、83歳の現役訪問看護師・江森けさ子さんだ。同年齢の入所者も多い「介護」の現場で、いまなお挑戦し続けている。そのバイタリティの源は、「高齢者に寄り添い、幸せな人生で幕を下ろさせてあげたい」という強い信念だった――(前編)。 【写真】笑顔がまぶしい、江森けさ子さん83歳。現役の訪問看護師であり介護も行っている。 ■山深い過疎の集落で地域に根ざした介護を 長野県松本駅から車でカーブの多い道を30分ほど走らせると、山深い緑に囲まれた、のどかな田園風景が広がる。以前は四賀村(現・松本市)だったこの集落に入ると、見えてくるのが「峠茶屋」の看板だ。 「こんな田舎までわざわざ来てくれて」。そう笑顔で出迎えてくれたのは、私財を投じて地域の介護施設を立ち上げてきた江森けさ子さん(83歳)だ。 NPO法人 峠茶屋では、松本市四賀地区で地域密着型通所介護(デイサービス)、定員9名の認知症型グループホーム、訪問看護ステーション、居宅介護支援事業所、定員7名の住宅型有料老人ホーム、訪問介護事業所、福祉有償運送事業などを運営。「地域で暮らし 共に生き 地域で老いて 地域で看取る」がモットーだ。 60歳の時に、終の住処(すみか)のつもりで家どころか墓まで用意していた静岡を離れ、故郷の四賀にUターン。2年後には通所介護施設「峠茶屋」を開所し、地域の高齢者のケアに取り組むようになる。施設運営の傍ら、介護支援専門士、認知症ケア指導管理士の資格も取得。もともと持っていた看護師の資格を生かした訪問看護師として、現場で高齢者に寄り添ってきた。
■幼少期から憧れた看護師で「手に職」を 「私はおしゃべりですからね」。そんなふうに笑顔ではきはきと切り出す江森さんに、看護師をめざすきっかけを聞いてみた。 江森さんが生まれた頃の80年前の四賀村は、養蚕と米づくりで生計を立てる貧しい農村だった。きょうだいは7人。とても進学する余裕はなかった。 「私は7人きょうだいの4番目だったから、手に職をつけて生きていこうと思っていたの」。憧れは、いつも目にしていたメンソレータムのかわいいリトルナースだ。中学卒業後は、長野県立阿南病院付属準看護学院に入学。看護師としての人生の歩みをスタートする。 当時の准看護婦は、開業医の家に見習い看護師として住み込み、家のことを手伝いながら准看護学校に通うというパターンがほとんどだった。しかし、「私がラッキーだったのは、全寮制の県立病院付属の養成所に入学できたこと。勉強に集中できました」。 ■不妊宣告を乗り越え、正看護婦学校在学中に2人の娘を妊娠 晴れて准看護師として働くようになり、23歳で結婚。結婚の条件は「働き続けられること」だ。夫となる元春氏とは、「看護師は食いっぱぐれがない」と意気投合。新婚生活がスタートする。しかし、すぐに卵巣嚢腫が発覚。術後、医師からは「子どもはできない」と宣告された。 不妊治療も何度かしたが、「30歳で子どもはあきらめました。その代わり、正看護師になろうと学校に通うことにしたの」。 夫の転勤で赴任していた広島には、准看護婦が正看護婦になるための学校があった。今こそがチャンスだと張り切って受験。入学が決まったときは、うれしくて一番に入学金を収めにいったほどだ。診療所で働きながら夜学で学ぶことは、大きな喜びだった。 うれしいニュースは続く。学校に通い始めて1年。2年生になる春休みに、思いがけない妊娠が発覚する。周囲は、「この妊娠は奇跡だから、学校を辞めるように」とアドバイスするが、江森さんは学業を続けることを選択。 「神様が勉強をしなさいと言ってくれている。だから妊娠できたのだ、って思って、意地でも辞めなかった。出産後、2週間だけ休んで、すぐに学校に戻ったの」 幼子を抱えての通学は大変だったはずだが、そんなことにくじける江森さんではない。なんと、3年生の夏には第2子を妊娠。卒業式では総代として、大きなお腹で壇上に立ったという。 「人生は一度だけ。人間にダメだということはないんですよ。やりたいことはとにかくなんでもやり通さなくちゃ」