センバツ高校野球 東海大相模、令和初V 万雷の拍手、降り注ぐ(その1) /神奈川
◇悔しさ、危機乗り越え 第93回選抜高校野球大会最終日の1日、東海大相模は決勝で明豊(大分)に3―2でサヨナラ勝ちし、第83回大会(2011年)以来10年ぶり3回目の優勝を果たした。石川永稀(3年)、求(もとめ)航太郎(2年)、石田隼都(3年)の3投手の継投で2失点に抑え、九回に小島大河(同)が遊撃強襲の決勝打を放った。劇的な幕切れに、2年ぶりに観客の戻った甲子園のスタンドから万雷の拍手が降り注いだ。【宮島麻実、隈元悠太、中田敦子】 強烈な打球が相手遊撃手のグラブをはじいて中前に転がり、三塁から深谷謙志郎(2年)がホームを駆け抜ける。ベンチから選手たちが飛び出し、ホームベース近くで歓喜の輪ができた。 東海大相模の選手たちにとってのセンバツの物語は、サヨナラ負けで始まり、サヨナラ勝ちで終わった。 原点は昨秋の関東地区大会2回戦だ。東海大甲府(山梨)に九回まで1―0と勝利まであと一歩に迫りながら、記録に残らないミスもあり、逆転サヨナラ負けを喫した。エースの石田は試合後に「抑えられないのは自分の弱さ」と自らを責めた。 このときの悔しさを糧に選手たちは冬場の厳しい練習に取り組んだ。厳しい場面で練習通りのプレーができるようにと走り込み、一球、一打にこだわって鍛え抜いてきた。 関東大会が8強止まりで、「センバツに選ばれるか分からない状況だった」(小島)が、選手たちは出場を信じて練習に明け暮れた。そこに出場決定の吉報が舞い込み、日本一が具体的な目標に切り替わった。 センバツ1回戦の相手が東海大甲府に決まると、選手たちは「絶対にリベンジしたい」と闘志をみなぎらせた。東海大甲府との再戦は延長十一回に及ぶ激戦。九回からリリーフした石田が3回を投げ被安打1と相手打線を寄せ付けず、大舞台で借りを返した。 続く鳥取城北(鳥取)戦では、関東大会2回戦と同じように1―0で九回裏を迎え、1死三塁の窮地に追い込まれた。ここでも石田が伝令の「攻めろ」という指示通り、真っ向勝負で2者連続三振を奪って切り抜けた。 一球への集中は、秋とは比べものにならないほどに研ぎ澄まされていた。準々決勝以降は急性胃腸炎で入院した主将の大塚瑠晏(るあん)(3年)を欠いたが、崩れるどころか「一人一人が主将の穴をカバー」(門馬功)し、結束力が高まっていった。 関東大会8強から日本一まで一気に駆け上がった東海大相模。その裏には、敗戦や危機を乗り越えてきた選手たちの底力があった。 ……………………………………………………………………………………………………… ■ズーム ◇直球に自信、夏へ誓い 求航太郎投手(2年) 勝敗を左右する場面で、公式戦2試合目のマウンドに立った。四回1死満塁。先発の石川永稀(3年)から「ごめん、あとは頼んだ」とボールを託された。「石田(隼都)さんまでつなごう」。直球主体の攻めの投球を貫き、犠飛のみの1点でしのいだ。 鹿児島県の奄美大島の出身。「もっとすごい選手と野球をしたい」と中学の時に神奈川に移住した。当初は「日常会話で方言が伝わらずに困った」というが、言葉も野球も地道に上達した。東海大相模に進んだのは練習の見学で「一体感があった。このチームで日本一になろう」と思ったからだ。 昨秋はベンチ入りできず、関東地区大会2回戦のサヨナラ負けはスタンドで見届けた。「自分が何もできず負けたのが本当に悔しかった」。冬場は走りこみで下半身を強化。門馬敬治監督も「体が大きくなった」と成長を認め、センバツで背番号10を勝ち取った。 今大会は6回3分の1を投げ無失点。一方で課題も見つけた。「九回まで投げられる投手になりたい」。夏の甲子園に、成長して戻ってくることを誓った。【宮島麻実】 ……………………………………………………………………………………………………… ▽決勝 明豊 100100000=2 東海大相模 100010001=3