「もう神頼みはやめよう」と決めた私が、目標達成のために唯一頼みにしている存在【坂口涼太郎エッセイ】
日常にこそきらめきを見出す。俳優・坂口涼太郎さんが、日々のあれこれを綴るエッセイ連載です。今回のエッセイは「監視官だるま」です。傍目にも驚くほどたくさんの作品に出演が続いているお涼さんを見つめる、7つの瞳。 【写真】日常こそが舞台。自宅で「お涼」ルーティーンを撮り下ろし 私が祈るための場所で願うことをやめたのは、10年前。 転校するまでの2年間、キリスト教系の小学校に通い、毎朝礼拝していたこともあって、私は人の祈る姿が一層好き。人の一番美しい姿とは祈っているときだという私見に基づき、神社仏閣・廟・モスクなど、人が祈るための場所に参拝し、身を置くことが好きなお涼だけれど、祈りと願いはちょっと違うね。祈りは誰かのために、そして、自分以外や自分を含むより大きなものに対してする感じがあって、願いは自分の望むことや自分にとってより近しい誰かや何かに対して強くする感じ。 10年前の私は俳優としてデビューしてから4年が経つものの、こんなに仕事とはないものかと驚愕し、開いた口が塞がらず、お口をあんぐり開けたまま映画館でアルバイトをしている毎日やった。そんなとき、京都にある願いが叶うと有名なお寺に友人たちと参拝することになり、私はこのお口あんぐり期からどうにか抜け出したいと思っていたので、「自分にふさわしい役で映画に出られますように」と願った。 すると、愛読していた『ちはやふる』という漫画に登場する、読めば読むほど自分だと思えてくるヒョロくんという役のオーディションを受けてほしいという連絡が半年も経たないうちに入り、私は、俺がやらなくて誰がやるねん、と思えるヒョロくんとして映画『ちはやふる』に参加することになったのでした。 願いごとが叶った嬉しさと、それはそれでまた違う驚愕でお口あんぐりな反面、これは自分ではなくて神的なものの働きによって叶った出来事で、私がそれまでしてきた経験や選択によって起きた出来事ではないと思ってしまい、「参拝して願ったから現実になった。願わなければ叶わなかった。ほんならこれから願ったことが叶わなくなったら、そこに参拝して願わなかったからだ」と、ど厚かましくも大いなる力に対して依存してしまいたくなるような、これこそ他力本願という状態なのではないかと思ってしまうような危うさを感じて、私は「もう神頼みはやめよう」と決めた。 それからはどんな祈る場所に行ってもお願いごとはせず、いま無事に生きていること、生きてくれている自分の身体に対して、世界があることに対して、かつて生きていた人へ、いま生きている人たちの中で自分も生きていることに対して、ただ「ありがとうございます」と祈ることにしていて、ひとり暮らしを始めてからのこの4年間は、家から外出するとき必ず通る道にお地蔵さまがいらっしゃるので、「今日もありがとうございます」とお地蔵さまと自分自身に向けて感謝することで、色々あるけど今日も無事に生きることができている自分へのご自愛になるような気がしています。