「美しすぎて生産は大変」「販売的には失敗だった…」 国産車史上最も繊細だと言われるクーペ
多くの国産車の中で異彩を放っていた美しい、いすゞの乗用車
いすゞとジウジアーロの関係は、彼が自身のスタジオであるイタルデザインを設立したあとも続いた。1981年に登場した117クーペの後継モデル、ピアッツァもジウジアーロの作。このときも、実現不可能と思われた造形をいすゞは見事に量産化し、世界を驚かせた。 1960年代後半からの10年あまりで、いすゞをはじめとする日本の自動車産業の技術、とくに生産技術は長足の進歩を遂げ、デザイナーの描いたイメージを、そのままに製品化することを可能としていたのだ。117クーペから始まったいすゞのデザインへのこだわりは、その後、1997年に発売されたスペシャリティSUV、ビークロスなどにも受け継がれた。ただし、そのこだわりが経営に貢献することは残念ながらなかった。2002年にいすゞは乗用車事業から完全撤退。創業以来の本業である大型車、商用車へ専念する。美しい商品を作り出す技術は確立できても、それを移り気な庶民にタイムリーに売る術は、ついに獲得できなかったのだ。 <写真キャプション> 前期型( 昭和43年~48年) レザートリムや台湾楠のウッドパネルが使われた豪華な内装。リヤガラスに熱線を使いたくないという理由で送風式のリヤデフォッガーまで備わっていた、こだわりの初期型。 <写真キャプション> 中期型(昭和48年~52年) バンパーの上にあったウインカーがバンパー下に移動。バンパーやテールランプも大型化。GMの資金提供でプレス成型などライン生産が可能になり一気に生産台数が増加。 <写真キャプション> 後期型( 昭和52年~56年) 丸目4灯のヘッドランプは角目に変更。バンパーは上面のみメッキのプロテクテッドラバーを採用。内装はクーラーからエアコンへ、前席フルリクライニング化など快適機能が充実。
117クーペの歴史
1966年(昭和41年) ・3月のジュネーブショーで「コンクール・ド・エレガンス」を受賞。 1968年(昭和43年) ・12月から販売開始。 1970年(昭和45年) ・11月マイナーチェンジ。電子制御燃料噴射のECと1.8Lツインキャブの1800を追加。 1971年(昭和46年) ・11月マイナーチェンジ。1800にシングルキャブの廉価版1800N(100馬力)136万円を追加。 ・GM社と資本・技術提携。 1972年(昭和47年) ・第19回東京モーターショーに「117クルーザー」を出展。 1973年(昭和48年) ・3月、量産化に向けて大幅変更「中期モデル」へ(ボディパネル全面変更、DOHCを含め全車1. 8Lに変更など)。 1974年(昭和49年) ・XGを除く全車にオートマチック車を追加。 ・10月、排ガス規制強化で馬力ダウン。 1977年(昭和52年) ・マイナーチェンジで「後期モデル」(ヘッドライトを丸型4灯から角形4灯に変更など)へ。 1978年(昭和53年) ・エンジンを2.0Lに拡大した「スターシリーズ」を発売。 1979年(昭和54年) ・2.2Lディーゼル追加。 1981年(昭和56年) ・生産終了。