「美しすぎて生産は大変」「販売的には失敗だった…」 国産車史上最も繊細だと言われるクーペ
販売的には失敗だったが、人々を魅了し続けた117クーペ13年の歴史
117クーペは、1967年に発売されたフォーマルセダンのフローリアンをベースとしている。そもそも117という車名は、フローリアンの開発コードなのだ。戦前から大型車メーカーとして高い技術力を誇っていたいすゞは、1950年代に英国のヒルマンのノックダウン生産で乗用車造りを学んだ。そして1960年代には自社開発のベレルやベレットを送り出したものの、デザイン面では後れをとっていた。それを挽回すべく手を組んだのが、まだ日本での実績がなかったイタリアのカロッツェリア、ギア社だった。フローリアンのデザイン開発中には、まだジウジアーロはベルトーネに在籍していたが、その後、ギア社に移籍した彼の手で117クーペは生まれた。 ただし、凝った造形は当時のいすゞの生産設備では量産することはできなかった。それでも、いすゞは乗用車メーカーとしての看板の役割を期待して、このクルマの市販を決意。既存の設備では造れない工程は職人の手仕事で仕上げることで、1968年末に発売にこぎつけた。初期のモデルがハンドメイドと呼ばれる所以だ。 エンジンも、ベレットなどに積まれていた1.6LのOHVをベースに、DOHCヘッドを与えて高性能化した。1970年には、日本の乗用車としては初となる電子制御燃料噴射装置も採用している。 フロントがダブルウィッシュボーン、リヤがリーフリジッドの足回りはフローリアンがベースながら、単筒式のショックアブソーバーやトルクロッドなどで武装して、スポーツカーらしいハンドリングと快適な乗り心地を両立させた。ただし、172万円という当時としては超高額な値付けをしたにもかかわらず、月にせいぜい50台の生産台数では、利益が出ないのは当然だ。 フローリアンやベレットのモデルチェンジもままならないほど経営が行き詰まってしまったいすゞは、1971年に米国の巨大メーカーGMと提携。獲得した資金と技術で117クーペの量産に成功して巻き返しを図る。1977年には、角形ライトなどでフェイスリフト。1981年まで、じつに13年にわたって生産された。その間にカスタムオーダー的なクルマという初期の個性こそ失われたが、その美しさは最後まで人々を魅了し続けたのだった。