議論の静謐さを言うとき 福沢「帝室論」は適切か 成城大教授・森暢平
慶應義塾の創設者、福沢の著書『帝室論』に言及されているのは、有識者会議の座長、清家篤が慶應義塾長であったことも関係するだろう。しかし、この記述は、歴史を知らない者の浅薄な理解に拠(よ)るとしか思えない。たしかに、福沢は『帝室論』の冒頭で、「帝室は政治社外のものなり」(帝室〈皇室〉は政治の世界の外の存在である)と書いた。ただ、それは、政争の対象としてはいけないと言ったのではない。 福沢が日刊紙『時事新報』を創刊したのは1882(明治15)年3月。2カ月後の4月26日から「帝室論」の連載が始まった(全12回)。国会開設をめぐり、官権派と民権派(自由党)の対立が激しくなったときだ。 官権派の代表的人物、『東京日日新聞』主筆、福地源一郎は、帝位が神聖でないと主張する者は「大罪人」であって、力の限り筆誅(ひっちゅう)を加えると述べた(『東京日日新聞』81年4月25日)。これに対し、自由党総裁の板垣退助は82年3月、「自由党ノ尊王論」を口述させ、自分たちこそ、天皇に英王室のような尊栄を与え、堯舜(ぎょうしゅん)(中国古代の伝説上の名君。堯と舜)としようとするのだと反論した(『東洋自由泰斗板垣退助君高談集』所収)。官権派と民権派が、尊王度を競い、それを基盤に自らの主張を展開したのである。 82年3月13日、福地らが立憲帝政党を設立した。政党の名前に「帝政」と付いたことに福沢は驚いた。天皇の政治利用そのものであったためである。4月6日、現在の岐阜市内で演説中の板垣が刺客に襲われた。犯人の遺書には「勤王の志を抑えられず、国賊、板垣に罰を与える」との趣旨が書かれていた。こうした騒然とした「政治の季節」に福沢は『帝室論』を書いた。官権派(立憲帝政党)でも民権派(自由党)でもない立場から、尊王を標榜(ひょうぼう)して争うことをやめ、対立の緩和を求めたのである。 一方、福沢は、英国で保守党と自由党が争いながら、政権交代する政治を理想とした。『帝室論』には、「対照的な政党が互いに争って、火のように水のように、または、盛夏のように厳冬のようになる」との記述もあり、政争はむろん否定していない。当時、立憲政治のあり方、つまり、国会の権限をどの程度認めるかについて国論は多くの立場に分裂していた。それこそが政治である。