【証言・北方領土】歯舞群島 水晶島・元島民 柏原榮さん(3)
ふるさと奪われたのは「戦争の悲劇」
―水晶島から引き揚げ、お父さんの事業はどうなったか? 動力船で逃げてきましたから、それで、今度は兄貴も帰ってきたということで、弟が最初に帰ってくんのかな。2番目は帰ってきたけども、奥さん、富山からお嫁さんにもらってたんで、富山のほうに行って、弟がその漁業をやるんですけどもね、引き継ぐんだけども、結局、爆雷で体、やけどしてるので、いわゆる障害者ですよね。そういう状態で、そういう業は、ほそぼそと、もうだめになっていくんです。おやじも亡くなった後はもう廃業ですね。 ―お父さんが25年ぐらいかけて積み上げたものが、歴史にある意味で翻弄されて、ゼロになってしまった。改めてどう感じるか。 これはね、やっぱり戦争の悲劇ですね。戦争っちゅうのは、勝ったほうも負けたほうもね、これは是になることはない。多くの人をね、殺していったり、民間人まで巻き込んで、ね、そういう状態に追い込んでいくわけですから、ふるさとを奪われて、奪われたっていうのも、これも戦争ですよね。60年近くの、70年近くなりますかね、の開拓の、水晶島は明治10年からですからね、だから、70年近くの開拓の歴史が、ね、ふるさとが戦争によって消えていくっていうかね、今はね。 だけれども、ふるさとはふるさとですよ、ふるさと。これはね、歴史的に、いわゆるふるさとであると同時に、国際法的にもふるさとであるという。情の世界、返ってきてほしいという、そういう思い、これは情の世界ですけれどもね、その情の世界を裏づけるのは理の世界、これは法の世界です、法の支配の世界ですからね。歯舞群島を含め、国後、択捉、色丹は、これは日本の固有の領土っていう。固有の領土っちゅうものの根拠があるのか、ないのかっちゅうんですよ。その根拠は、歴史の上でも、それから、国際法的にも、私はあるというふうに、それが運動です、返還運動の支えになってんですよね。 結局、第二次世界大戦を契機にして、大西洋条約機構っちゅうか、憲章というかね、領土不拡大の原則っていうかね、戦争によって領土を取るというのは昔の話っちゅうね。第一次世界大戦はそうだったと思うんですけれどもね。第二次世界大戦ではそうではない。だから、負けた国で、ね、その前に取ったものは全部返すということで、日本は、それを実行したわけでしょ、中国、朝鮮。 それから、対馬は、これはいろいろ条約の中で、返すべきなのかどうかっていう疑念が残るけれども、本来的には返す必要はあんまなかったんだけどもさ、だけれども、日ソ、1956年の日ソ共同宣言によってさ、2島を中心にして、あと、アルファっていうか、帰属。その帰属っちゅうの、向こうに帰属するのか、日本に帰属するのかっちゅうことで、日本の立場でいえば、日本に帰属するっていうか。それ明確ではないけどもね、そういう領土問題っちゅうのを、ずっと引き続いてきてるわけですよ。だけども、その根底は、先ほど話したように、領土不拡大の原則っていうかね、どこの国からもね、侵略されたことのないところです。 しかも、ロシアはさ、革命、当時のレーニンは、第一次世界大戦ですか、記録によると、この領土不拡大の原則を唱えた筆頭者でもあると、記録だか何か本で読んだことあるんですけどもね。ですからね、ロシア自身もそういう原点に返るべきである。つまり戦争によって取ったってっつってるんだけどね、戦争によって終わったと言ってるんです。何が終わったのかと。ね、第二次世界大戦、日本との関係ではね、これは不戦条約を結んでいたりね、今、話したように、領土不拡大の原則に、そういうのっとってるんですからね、彼らはね、連合国側に加盟してるわけですからね。 だから、そこのところを日ソ共同、日ソ間でそういう領土問題の追求をするだけではなくて、ね、これ当事者ですから、当然。だけれども、それを追求したら、島は返らないと、こういう世論があるわけですよ。だから、ね、日ソ共同宣言を核にして云々っていうのは、そういうところに来てると思うんです、現実的な問題としてはね。