“子どもがいなくなったら地球はおしまいです”中川李枝子さんの言葉に込められた想い
この再会が幸福なのは、中川さんが子どもという存在を全肯定しているからだと思います。条件は何もありません。そこに子どもがいる。ただそれだけのことが尊いのです。中川さんの肯定の仕方は宇宙的です。どっしりとして揺るぎがありません。温かい両手に守られていながら、少しも窮屈ではなく、それどころか心はどこまでも果てしないところを旅しています。まさに、絵本を読んでもらっているのと同じ安らかさです。 本書のタイトル『本・子ども・絵本』を見つめていると、本と絵本の間にある広々とした野原を駆け回っている子どもの様子が、目に浮かんできます。安全であり同時に自由である、という矛盾しかねない状況が、無理なく一続きになっています。本と絵本はやすやすとそうした野原を作り出し、子どもたちを丸ごと受け止めます。
子どもたちが、絵本の世界を旅する興奮と喜び
彼らがいかに物語の奥深くまで入り込んで真の楽しさを見出すか、中川さんは繰り返し書いておられます。ようやく這い這いをしはじめた頃、“全身これ喜びのかたまりといった格好で”、本を取り出す力仕事に面白さを発見するところからスタートし、やがて大人の膝の上を基地にして絵本の世界を旅する興奮を味わい、更にはその喜びを子ども同士で分け合いながらどんどん進化させてゆきます。とても大人にはかなわない能力です。 口もうまく回らない、文字も書けない子がなぜ、それほどまで絵本にのめり込めるのか、不思議な気もします。もしかしたら言葉を知らない幼い子の方が、意味やストーリーや主題、といった理屈に惑わされることなく、思う存分ページの海に飛び込めるのかもしれません。彼らがたどり着くのは、言葉が生まれる以前の地点です。便宜上、言葉でこう表しているけれど、本当は人間の考えた言葉など届かないくらいに深遠な場所。子どもたちは皆、そこへ至る道順を知っています。でも言葉が未熟なせいで、大人たちにそれを教えてあげられないのです。
小川洋子さんが襲われた、猛烈な後悔
彼らの秘密を探りたいなら、方法は一つ、絵本を読んであげる、これしかないでしょう。私は今、猛烈な後悔に襲われています。息子が小さかった時、どうしてもっとその時間をじっくり楽しまなかったのか。大事な秘密を共有できる絶好の機会だったのに、早く寝てくれないと、原稿が間に合わないなあ……という、つまらない焦りにとらわれていました。自分の原稿など放り出してお話の国を一緒に冒険すべきでした。息子の息遣いに耳を澄ましていれば、道順のヒントをかぎ取ることができたかもしれません。 ただし一方で、子どもが持つ慎重さについても中川さんは指摘しておられます。すべての本に彼らが満足するわけではなく、また、それを受け入れるには、一人一人異なった過程があります。 “新しい本には、ためつすがめつの時間も必要です” 私はこの、ためつすがめつ、という言葉が気に入りました。表紙を開き、絵を見やり、一度顔を上げて宙に視線を泳がせる、子どもの横顔が想像できます。迷いとためらいが、利発そうな影を作り出しています。そこでは、時間がその子だけの流れ方をしています。誰も邪魔できない特別な時間です。 だからこそ子どもが手に取る本は、本物でなければいけません。大人が勝手に要約したり、単純化したり、派手な見た目で誤魔化そうとしたものは、結局、見捨てられるでしょう。子どもたちは皆、賢いのですから。 “……正しい日本語がいちばんよく通じるということです。なぜなら、子ども自身が正しく話そうとしているからです” 正しい言葉によって組み立てられた舟でしか、言葉の届かない場所へ漕ぎつくことはできないのかもしれません。
中川さんは絵本を読みながら、子ども一人一人を見ていた
長年、保育園にお勤めされた経験を持つ中川さんは、“絵本を読みながら子どもひとりひとりをしみじみと眺め、心の底から、ああ、何て良い子だろう、可愛いんだろう”と感じ入ったそうです。ここを読むと、遠い昔に去ってしまった自分の子ども時代も、後悔ばかりの母親としての経験も、全部が許されたような気持になります。例外なくかつては子どもだった読者の方々も、やはり中川さんの許しに包まれることになります。それどころか、全世界の子どもたちが皆、愛されているのです。 “子どもがいなくなったら地球はおしまいです” これほどの真実をついた言葉を、私は他に知りません。
小川 洋子/文春文庫