【親孝行物語】「音信不通だった息子が、孫を連れて帰ってきた…」仕事一筋の男性が苦労の果てに手にした家族~その2~
「孝行のしたい時分に親はなし」という言葉がある。『大辞泉』(小学館)によると、親が生きているうちに孝行しておけばよかったと後悔することだという。親を旅行や食事に連れて行くことが親孝行だと言われているが、本当にそうなのだろうか。 厚生労働省の発表によると、2024年1~6月に生まれた赤ちゃんの数(出生数)は、前年同期比5.7%(2万978人)減の35万74人と過去最低だった(2024年『人口動態統計』速報値)。政府は2024年度から少子化対策に取り組む「加速化プラン」を策定。10月分から児童手当の所得制限を撤廃し、高校生まで支給対象を延長するなどを行なっている。 東京都心に住む敏志さん(75歳)は、息子と孫と3人で生活している。「妻と離婚後、ほぼ音信不通だった息子が、孫を連れて帰ってくるとは思わなかった」と慣れない育児に奮闘中だ。 【これまでの経緯は関連記事から】
大阪は水が合わないのではないかと、上京する
31歳で離婚し、当時7歳の息子の親権は妻に譲った。妻は「今後一切、連絡するな。息子にも会わせない」と宣言。付き合っていた女性とも別れた。 「息子は可愛いから、毎月3万円の養育費の送金は欠かしませんでした。自分が親から愛情を受けなかったので、せめてお金くらいは渡そうと。大阪で2つの家族を失ったことで“水に合わないのではないか”と上京することにしたんです」 住む場所も仕事も何も決めておらず、いきなり上京した。新宿の安宿に泊まり、仕事を探し始めた。東京の求人は大阪より条件が良くて驚いたという。 「新聞の求人欄を見て連絡する。“求ム!運転手。国鉄大塚駅・委細面談”と最低限の条件しか書いていない。それを見て、電話をすると“来てください”と言われる。僕はどんな仕事でも採用される自信があったので、一番いい条件のところを選んだら、大手ホテルのマネージャー職だったんです」 外国人客も多い都心のホテルのサービスマンとして、敏志さんは採用された。接客、人員の配置、今のコンシェルジュのような仕事など、内容は多岐に渡った。 「僕は“正解がない仕事”が好きなんです。お客様の無理なオーダーにも対応しました。六本木のディスコの黒服さんにお願いして席を確保したり、女性をアテンドしたり、誕生日にサプライズを仕込んだり、いろんなことをしましたよ。誰もが知るアーティストのグルーピー(熱狂的なファン)の子たちを、マスコミにバレないように貨物エレベーターで部屋まで送り届けたり。ネットがない時代だからやりたい放題でした」 ホテルの仕事は敏志さんに合っていた。誰にも折り目正しく、如才なく余計なことは言わない。言われたことに全力で対応し、気持ちは穏やか。勉強家で英語がすぐさま話せるようになったという敏志さんはたちまち出世。バブル時代ということもあるが、給料も破格だった。 「仕事が楽しくて、夢中で過ごすうちに46歳になっていることに気づいたのです」 46歳は敏志さんにとって特別な年齢だ。なぜなら、息子が大学を卒業する22歳になるからだ。離婚してから15年間、養育費の送金を続けたのは、息子への愛情と父親としての責任があったから。 「この年、阪神淡路大震災があり、元妻も息子の無事を確認していました。その後も、東京に呼び寄せたいことを書いたハガキを送ったのですが、返事はない。離婚してから、息子はどうしているんだろうと泣いたこともありましたし、仕事で辛いときに辞めてやろうと思っても、息子にお金を送れなくなったら困ると、歯を食いしばって働きました」 敏志さんが養育費を送り続けたのは、息子に進学してほしいからだ。それが終われば、ホテルでがむしゃらに働く必要もなくなる。今後を考え始めたときに、ホテルの常連客から「仕事を手伝ってほしい」と言われ、転職する。 「思えば僕の人生は、お客さんに導かれてきたようなもの。自らの意思で行動したのは、上京したときだけ」