大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由
交易の起点、大阪平野
現在、大阪府内で最古とされる水田跡は高槻市にある安満遺跡のもので、弥生時代前期(約2500年前)にさかのぼる。正確には、近畿地方で最古とされている。また、弥生時代中期の森小路遺跡(大阪市旭区)からは、稲作が行われていたことを示す石包丁や木製の鍬(くわ)、臼などの農具やもみ跡のある土器が発見されている。水田は見つかっていないものの、周辺の低湿地には水田があったと考えられている。 大阪平野の低湿地で稲作が盛んになると、余剰生産物が生まれ、これが交易の基盤となった。この点で、大阪平野は地理的に非常に恵まれた場所にあった。西は瀬戸内海に面しており、これが自然の海上交通路として機能し、大陸や朝鮮半島との交流を可能にした。東には淀川があり、さかのぼることで京都方面への交通路となった。また南には大和川があり、奈良盆地とを結ぶ水路となっていた。 このような水上交通の要衝に位置することで、大阪平野は単なる農業生産地ではなく、さまざまな物資の集散地としても発展していった。農産物や手工業品の交換が活発化し、その過程で人々が集まるようになった。農業生産の向上と交易の活発化が相互に作用し、人口の増加や新たな技術の導入を促進した。その結果、大阪平野ではさらなる開発が進み、水路の整備や新たな農地の開拓、集落の形成などが行われ、地域全体の発展につながった。 このような農地の開発や港の整備といった大規模な土木工事は、実は古墳時代(3世紀後半から7世紀頃)にはすでに本格的に行われていた。この時代には、大型古墳の造営技術が発達し、それが土木工事全般の技術向上をもたらした。具体的には、 ・大規模な盛り土 ・堤防の構築 ・水路の開削 などの技術が確立された。 特に注目すべきは、これらの技術が古墳造営だけでなく、農地の造成や港湾施設の整備にも応用されたことだ。大規模な堤防や水路の建設は、洪水の制御やかんがいシステムの改善につながり、農業生産性を大幅に向上させた。また、港の整備は 「海上交通の発展」 を促し、より広範囲な交易を可能にした。 これらの土木事業は単なる技術的成果にとどまらず、当時の政治権力の象徴でもあった。大規模な土木工事を行う能力は、その政権の経済力と組織力を示し、新たな農地や交易路の確保によって、さらなる経済的・政治的影響力の拡大につながった。