大阪はなぜ「ため池」だらけなのか? 1平方kmあたりの密度「全国2位」の納得理由
仁徳天皇の治水革命と農地開発
同じ時期に、仁徳天皇は淀川の流路を安定させるために「茨田堤(まむたのつつみ)」を築いたとされる。この堤防の痕跡は、河内平野北部を流れる古川沿いに残っており、考古学的に実際に築かれたことが確認されている。 この治水事業の成果として、仁徳天皇13年には「茨田屯倉(まむたのみやけ)」が設置されたことが『日本書紀』に記されている。屯倉は 「ヤマト王権の直轄支配地」 で、新たに開発された肥えた農地を効率的に管理するために設置されたと考えられている。これらの記述から、一連の大規模な土木工事によって新しい農地開発が進められたことがわかる。また、『古事記』にも次のように記されている。 「作茨田堤及茨田三宅、又作丸邇池・依網池、又掘難波之堀江而通海、又掘小椅江、又定墨江之津」 茨田堤および茨田三宅を作り、また丸邇池(わにのいけ)や依網池(よさみのいけ)を造り、難波の堀江を掘って海に通し、小椅江(おごしえ)を掘り、墨江(すみのえ)の港を整備したのだ。 丸邇池は現在の大阪府富田林市にある粟ヶ池、依網池は現在の大阪市住吉区にあった池(現在は碑が立っている)と考えられている。これらの記録は、古代から大阪地域で広範囲にわたるため池の整備が行われていたことを示す重要な証拠となっている。 仁徳天皇の在位は4世紀後半から5世紀前半とされている。このように、王権による早期からの計画的な開発と、それを支える高度な土木技術が、大阪に多くのため池が存在する根本的な理由だろう。この古代からの水利システムの伝統が、現在まで続く大阪の豊かな水文化の基盤となっているのだ。
交易と農業が生んだ力
古代畿内における政治権力の形成については、長い間議論が続いてきた。 これまでの主流な見解は、奈良盆地に勢力を持つヤマト政権が河内平野に進出したというものであった。しかし近年の考古学的発見や文献の再解釈によって、河内平野を基盤とする独自の政権(いわゆる河内政権)が成立し、そこから勢力を拡大したという説が有力になってきている。この河内政権は、応神天皇の時代に始まり、仁徳天皇の時代に大きく発展したと考えられている。 河内政権の力の源泉は、 ・地理的優位性を生かした交易 ・豊かな農業生産 であった。特に重要なのは、仁徳天皇の時代に実施された大規模な土木工事である。難波堀江の開削や茨田堤の築造などは、単なる治水事業ではなく、政権の存立基盤を強化する重要な国家プロジェクトだった。これらの事業は、水系の支配を通じて農業生産を安定させ、水上交通路を整備することで交易を促進する役割を果たした。つまり、これらの土木工事は河内政権の経済基盤を強化し、政治的影響力を拡大するための戦略的な取り組みだったのである。 この地域が古代の首都機能を果たしていた期間は想像以上に長い。仁徳天皇の時代、すなわち4世紀後半から5世紀前半にかけて、難波高津宮が上町台地に置かれたとされる。その後、6世紀末から7世紀前半にかけて政治の中心が飛鳥に移ったが、645年の乙巳の変(大化の改新)を経て、652年には孝徳天皇によって再び大阪平野に遷都が行われている。 難波高津宮の正確な位置は不明だが、難波長柄豊碕宮は現在の大阪城の南に位置していたことがわかっており、一部は現在の難波宮跡公園となっている。特筆すべきは、古代において複数回にわたり皇居が上町台地周辺に置かれたことである。この立地選択は、難波津を中心とする交易圏の重要性を如実に示している。 このように、大阪平野が古代から首都として選ばれ続けたのは、その地理的優位性と、それを生かした経済的繁栄があったからだ。そして、その繁栄を支えたのは、前述の治水事業や農地開発である。ため池などの水利施設の発展は、古代国家の戦略と密接に結びついていたのである。