162名が命を落とし、自衛隊が大バッシングを受けた「全日空機雫石衝突事故」 なぜ起きたか 何を残したのか【戦後事故史】
2024年1月2日、羽田空港地上衝突事故から半年が経つ。新年早々の能登半島地震に続く悲惨な出来事に、ショックを受けた記憶はまだ新しいだろう。じつは、過去にも日本で政府管轄の組織の航空機と民間旅客機が衝突する事故が起きている。それが、1971年の「全日空機雫石衝突事故」だ。旅客機側の乗員乗客162名全員が亡くなり、当時の日本において最大の犠牲者を出したこの航空機事故は、なぜ起きたのか。過失はどう判断されたのか、そして、その後の安全対策にどう影響したのか、改めて振り返っていく。 ■岩手県の上空で、自衛隊所属の戦闘機と旅客機が衝突 2024年1月2日、東京の羽田空港で日本航空機と海上保安庁機が滑走路上で衝突。この事故では、海上保安庁機の搭乗員6名のうち5名が死亡した。一方、日本航空機の乗客367名と乗員12名は全員無事に脱出成功し、日本航空乗員の迅速な対応が称賛された。 日本の航空史には、過去にも政府管轄の組織の航空機が民間旅客機と衝突した例がある。それが、1971年7月30日に岩手県岩手郡雫石町の上空で発生した「全日空機雫石衝突事故」である。 7月30日、千歳空港を午後0時45分発羽田行の全日空58便(以下:全日空機)は、予定より遅れ13時33分に離陸。13時46分に函館上空を通過し、その後、高度を上昇しながら松島に向けて進路を変更した。 一方、航空自衛隊第1航空団・松島派遣隊所属のF-86F戦闘機2機(教官機と訓練機)は、フォーメーション飛行訓練のため13時28分頃に離陸し北へ向かった。教官機には31歳の教官(1等空尉)、訓練機には22歳の訓練生(2等空曹)が乗っていた。 ■全日空機と訓練機が急接近 14時2分頃、全日空機は高度約8,500メートルを自動操縦で飛行し、時速約900キロメートルに達していた。同じ頃、教官機は高度約7,800メートルを時速約820キロメートルで右に旋回してから左に曲がった。 このとき、教官は後方に全日空機が近づいているのを見つけ、訓練生に回避を指示した。教官機を追尾していた訓練機は、教官の警告を受けて機体を左に傾けた。一方、全日空機の機長も自衛隊の訓練機を視認し、操縦輪を強く握ったと推測される。 しかし、その時点ですでに手遅れだった。全日空機が追いついてしまい、水平尾翼が訓練機の右主翼に衝突した。この間、わずか数秒の出来事であった。 衝突の瞬間、全日空機は操縦不能状態に陥った。ボイスレコーダーを搭載していなかったが、各管制所との交信で機長らしき人物の「エマージェンシー、エマージェンシー」という緊急メッセージと、その後の断末魔のような叫びが確認されている。 全日空機は直後に高速で降下し、空中分解した。轟音は雫石町から20キロメートル以上離れた盛岡市まで届いたという。一方、右主翼が破壊された訓練機はきりもみ状態となって落下していった。