162名が命を落とし、自衛隊が大バッシングを受けた「全日空機雫石衝突事故」 なぜ起きたか 何を残したのか【戦後事故史】
■墜落後のむごたらしい状況 全日空機の乗員乗客はバラバラになった機体とともに、雫石町の西安庭地区に散らばるように落下した。162名の人体が高速で主に頭から地面に叩きつけられたのである。偶然目撃した人々や、その後遺体の回収作業を行った自衛隊員、警察官、消防団員の戦慄は想像を絶する。 残念ながら、旅客機側に生存者はいなかった。乗客乗員162名全員が死亡し、その時点では日本で発生した最大の航空機墜落事故となった。 訓練機はどうなったのか? 操縦していた訓練生は、きりもみ状態で落下する過程で風防が外れていることに気づき、安全ベルトを外して機体から脱出。パラシュートを開いて生還することができた。 機体は空中分解し、田んぼに落下した。のちの証言によれば、訓練生は全日空機が衝突後どうなったかは分からなかったという。教官機は上空を旋回しながら通報を行い、状況を報告したあと松島飛行場へ着陸した。 ■「民間の航路とは知らなかった」激化した自衛隊バッシング 自衛隊機と民間旅客機の衝突はこれが初めてではなかった。1960年に愛知県の小牧空港の滑走路で衝突事故があり、民間旅客機側に3名の犠牲者が出たことがあった。それから11年後に発生した雫石での事故について、メディアは以下のように報じた。 「全日空機、自衛隊機と空中衝突 世界最大の航空機事故 自衛隊機のミスか」(朝日新聞) 「自衛隊に衝突された全日空機惨事 162人全員が死亡 人災!政府・自衛隊の責任重大」(読売新聞) 162名の命が失われた悲劇を伝えつつ、自衛隊を痛烈に叩いた。そして、世論もこれに同調した。さらに、助かった訓練生が「民間の航路とは知らなかった」、教官が「(航路を)いちいち気にしていたら、訓練にならない」と火に油を注ぐような発言をしたため、自衛隊や国に対する非難は容易には収まらなかった。 ■報告書が示した事故原因と、刑事裁判の判決 当時は日本に常設の航空事故調査委員会が設置される以前であり、この事故のために「全日空機接触事故調査委員会」が総理府(内閣府の前身)に設置された。 7月27日には、運輸大臣(現在の国土交通大臣に相当する)に事故報告書が提出された。報告書では、最大の事故原因として「教官が訓練空域を逸脱してジェットルートJ11L(※1)の中に入ったことに気づかず訓練飛行を続行したこと」と指摘している。その一方で、「操縦士が接触直前まで回避操作を行わなかった」と、全日空側にも事故原因の一端があったとした。 自衛隊機の教官と訓練生は、業務上過失致死と航空法違反の容疑で逮捕・起訴された。第一審では、教官に禁錮4年、訓練生に禁錮2年8月の実刑が言い渡されたが、控訴審と上告審で判決は減軽される。教官に禁錮3年執行猶予3年の判決が下され、訓練生は無罪となった。 有罪判決を受けた教官は自衛隊を辞めた。訓練生は自衛隊に残ったが、戦闘機から救難機のパイロットに転じ、定年まで務めたとされる。 ※1=ジェットルートとは、高高度を飛行する航空機のために設定された空中航路で、J11Lは特定の航路を示すコード ■安全対策はどう変わったか 1971年8月7日、中央交通安全対策会議は「航空安全緊急対策要綱」を発表した。この要綱では、自衛隊訓練空域と航空路の完全分離、訓練空域の公示、そして域内を飛行するすべての航空機に対する管制を義務づける特別管制空域の拡充などを定めた。 また、1975年6月24日に改正航空法が成立。この改正では、航空管制空域での曲技飛行と訓練飛行の原則禁止、空港周辺空域での通過飛行の禁止と速度制限、ニアミス防止のための安全義務と報告義務、トランスポンダーとフライトレコーダー等の装置の装着義務などが明記され、これらの規制は自衛隊機にも適用された。
ミゾロギ・ダイスケ