福島第一原発事故から3年 始まりに過ぎない発電所の現状は?
手書きの水位が書かれた中央制御室
隣の3号機の両側にはクレーンが見え、4号機と同じような取り出しカバーの設置が進んでいた。現在、使用済み燃料プールから瓦礫を撤去している途中なのだという。 4号機から移動する。目の前は、明るい水色をしたとても穏やかな海が広がっている。この海が高さ15mの津波となって発電所を襲ったとはすぐに想像できなかった。建屋の周囲には、津波の被害なのか水素爆発による被害なのか判然としないが、窓ガラスの割れた建物や運転席がひしゃげたトラック、大きな瓦礫がいまだに残っている。津波で破壊された突堤の部分にはテトラポッドが置かれ、周囲は簡易的だがネットに石を詰めた防潮堤が築かれていた。
次に訪れたのが、1号機と2号機の間にある中央制御室。原子炉やタービンの運転を行う場所で24時間態勢で作業員が詰めていた。いまは運転員の面影はない。事故当日、津波によって発電所は電源を失い、この場所の照明もすべて落ちた。東電の広報担当者は、原子炉の水位計に懐中電灯をあてながら、その横に書かれた手書きの文字を照らしだした。時刻と水位のメモだ。冷却機能を失った原子炉の水位はどんどん下がっていった。「真っ暗になったこの部屋で、運転員はこのように懐中電灯で水位を確認していた。運転員が事故と必死に戦ったあとです」と説明した。
まだ始まりに過ぎない3年の節目
再び入退域管理施設に戻る。そこで身につけている防護服が回収される。防護服は、脱ぐときの方が着るときよりも重要なのだという。素手で不用意に汚染された部分に触れてしまうとその手を除染しなければならない。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、手袋を順に沿って脱いでいき、身につけていた線量計を返却した。 「Jヴィレッジ」まで、バスで来た道を戻る。午後1時40分、再びホールボディカウンターを受検する。異常はなかった。構内の取材は90分足らず、この取材で30μSv=0.03mSvを被曝したと伝えられた。 ホールボディカウンターが置かれた施設の横には、作業員の宿舎があり、廃炉技術者らが宿泊しているという。廃炉には30年、40年かかると言われる。 事故当時、定期点検中だった4号機の燃料は比較的取り出しやすい状況だったが、ほかの1号機から3号機の燃料は溶け落ちて底にたまり、「デブリ」になっていると見られている。これをどうやって取り出せばいいのか? スリーマイル事故でも燃料の取り出しに10年を要した。使用済み燃料の取り出し一つにしても課題が山積している。溜まり溜まった汚染水はいつまでに処理できるのか? 処理されたトリチウムを含んだ水はどう処理したらいいのか? なかなか元のように戻らない放射線とどう向き合っていけばいいのか? 事故から3年という節目を迎えたが、遠く終わりを見据えると、まだまだ始まりに過ぎないのだということを改めて思い知らされた。