「天武天皇」ゆかりの「吉野」になぜ桜が多いのか
「桜の王」と呼ばれた聖武天皇
桜の樹の下には屍体が埋まっている……(筆者撮影)
桜の季節の日本列島は、1年でもっとも美しい。絢爛に咲き誇り、はかなく散っていく桜……。日本人の美意識、死生観にこれほど合う花は、ほかにない。 花は散り、そして1年の流転ののち、ふたたびこの世にもどってくる。おそらく、旧石器時代や縄文時代から継承されたアニミズム、多神教的宗教観と桜は、うまく合致したのだろう。 西行の有名な、 「ねがはくは 花のしたにて 春死なん そのきさらぎの もち月のころ」(『山家集』) も、桜に対する、日本人固有の意識が表されている。近代に至っても、梶井基次郎は、 「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」(新潮文庫『檸檬』に収録の『桜の樹の下には』より) と、研ぎ澄まされた感性で桜の神秘性を表現している。日本人にとって、桜は特別な存在なのだ。 もっとも和歌の世界では、一時期、桜の人気は低迷した。たとえば、『万葉集』に詠(うた)われた花は、「萩」や「梅」「橘」が上位3位に位置し、桜は10位と、パッとしない。当時の貴族やインテリは、花と言えば梅を連想していたようだ。これは、漢文学の影響を強く受けた結果である。 とは言っても、古代人が桜を軽視していたかというと、けっしてそのようなことはない。 すでに第19代允恭(いんぎょう)天皇の時代に桜は歌になっている(5世紀前半か)。 「花[はな]ぐはし 桜[さくら]の愛[め]で こと愛[め]でば 早[はや]くは愛[め]でず 我[わ]が愛[め]づる子[こ]ら」 これは、允恭天皇が湧水の脇にたたずむ桜を眺め、皇后の妹で絶世の美女だった衣通郎姫(そとおしのいらつめ)に思いを伝えようと歌ったものだ。 「桜のめでたさよ。愛するなら、もっと早く愛せばよかった。おそすぎたことよ」 この話を聞いた皇后は、天皇を深く恨むのである。桜の輝きと皇后の嫉妬のコントラストが、際立って見える。ここが梅だと、物語に深みが出ない。いい意味でも、悪い意味でも、桜には情念がこもるのだ。 桜の特徴は、「はかなく散ること」にある。そこに、日本人は美を感じとってきた。 『日本書紀』に登場する天皇家の祖神・木花之開耶姫(このはなのさくやひめ)の名「木の花」も桜を意味する。物語は悲劇的だ。 天孫降臨を果たしたニニギ(天津彦根火瓊瓊杵根尊=あまつひこねほのににぎねのみこと=)に大山祇神(おおやまつみのかみ)は、2人の娘を差し出す。ニニギは、醜い姉を遠ざけ、美しい妹(木花之開耶姫)を召された。恨んだ姉は呪いをかけ、「妹だけを娶ったために、生まれた御子は、木の花が散るように、短命になるでしょう」と告げたのだった。 別伝には、姉は恥じ恨み、唾を吐いて泣き、「この世の人は木の花のように、すぐさま盛りが過ぎ、生命も衰えてしまうでしょう」と告げたというのである。 神話同様に美しい女性を桜に重ねて見せたのは、紫式部の『源氏物語』だ。光源氏の妻・紫の上は、山桜が盛りの頃に見出されたとある。まるで桜の化身のような存在だ。 光源氏は、最愛の妻・紫の上が亡くなると、あとを追うようにこの世を去る。物語の中の桜は、生と死の象徴でもあるのだ。
本文:2,010文字
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関裕二