死者・不明者1100人超「火の雨で焼かれた」福岡大空襲から79年 戦争の記憶どう語り継ぐ
江浜明徳さん(73)「中に銀行の地下室がありまして、そこが防空壕指定場所になっていました。防空壕の外に逃げられなかった方がここで窒息死。その後火災で蒸し焼きになって、もう悲惨な状態だったそうです」 博多区内には、空襲で亡くなった人や戦死した人を供養する戦災地蔵があります。 江浜明徳さん(73)「今ビルの谷間にやっと残っているという感じなので、いつまでもここを守ってもらいたいと私は感じております」 参加した女性「普通に通り過ぎてる道でも、そういう焼け野原になったところがあったんだな、というのがわかったので、ちょっと見方が変わってきました」 ■「戦争遺構」をガイドブックに ガイドを務めた江浜明徳さん(73)は元高校の教員で、退職後に九州に残る戦争遺構400か所を巡り、ガイドブックにまとめてきました。 各地で撮影した大量の写真はアルバムに保存しています。 江浜明徳さん(73)「ここに今までの本を出すための写真集(アルバム)があります。あわせて300冊くらいだと思います」 戦後生まれの江浜さんが現在の活動を続けてきた原点は、子供の頃に両親から聞いた空襲の体験だといいます。 江浜明徳さん(73)「山を越えた博多の方で火の手が上がっているのが雲に反射して見えると。父は本当に中心街・博多区の大浜地区に住んでいましたたが、もちろん家はまる焼けで、戻ってみたら何も残っていないと。同窓生をたくさん亡くして戦争は絶対にいけないと私に言っていたのがずっと私の心の中に残っていました」 ■小学校にも空襲伝える遺構が 福岡市内に残る遺構を江浜さんに案内してもらいました。まず訪れたのは博多小学校です。 江浜明徳さん(73)「焼け焦げたドアが見えておりますけれども、これが福岡空襲の際に焼けた理科実験室のドアになります」 「これこそ、戦争の悲惨さの生きた教材だと私は思いますね。これを見ればですね。子供たちはこんなに戦争は悲惨だったんだとこんな被害を受けたんだともう絶対に戦争はいけないと。やっぱり本当のものを見て感じ取ってくれるのではないかと」