【ここまで変わった!戦国史】「戦国時代」のはじまりはいつか? 応仁の乱は時代の区切りではなかった?
かつて「戦国時代」というのは、応仁・文明の乱を境に始まったとされていたが、近年はそれよりも早い段階からはじまっていたとする説がある。 従来説:応仁の乱または明応の政変がはじまり 新説:はじまりは関東で起きた享徳の乱である ■古河公方と関東管領が争って関東が真っ二つ 時代の名称は、政権の所在地を冠して呼ばれるのが一般的で、政権の誕生から滅亡までが、ひとつの時代となる。ところが、戦国時代には、全国的な政権が崩壊していることを前提としているため、いつから始まったとは断定できない。通説では、応仁元年(1467)から文明9年(1477)までの約11年間にわたって続いた応仁・文明の乱によって戦国時代が始まったとされてきた。 しかし、近年では応仁・文明の乱よりも早い段階から、戦国時代に突入していたのではないかとの説が出されている。それが、享徳3年(1454)に関東で始まった享徳の乱である。 室町時代、本拠を京都に置いていた幕府は、関東10カ国を鎌倉府に統括させていた。鎌倉府の長が鎌倉公方足利氏で、その鎌倉公方を補佐したのが関東管領上杉氏である。 享徳3年、5代鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)が、対立した関東管領上杉憲忠(のりただ)を自邸で暗殺してしまう。関東管領は、鎌倉公方の補佐役であると同時に、幕府のお目付け役でもあった。その関東管領を鎌倉公方が殺害したことで、幕府はこれを足利成氏の反乱とみなしたのである。 この後、古河に移って古河公方と称した足利成氏は、幕府の支援をうけた山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)が上杉氏と対峙した。こうして関東では、古河公方の勢力と、幕府・関東管領の勢力によって覇権が争われることになる。このように、応仁の乱以前から関東では争乱が始まっていたことから、享徳の乱をもって戦国時代の始まりと考えられるようになっている。 もっとも、いつから戦国時代になったかについては、厳密に定義できるものではない。享徳の乱を戦国時代の始まりとみなすのは、あくまでもひとつの考えである。従来通り、応仁・文明の乱を戦国時代の始まりとみなす説も否定されたわけではない。他にも、管領家の細川政元(ほそかわまさもと)が将軍足利義材(義稙)を廃位した明応2年(1493)の明応の政変を戦国時代の始まりとする説もある。 監修・文/小和田泰経 歴史人2022年11月号「日本史の新常識100」より
歴史人編集部