巨大・諸葛孔明がお出迎え!? 「三顧の礼」の舞台は、今どうなっているのか?
襄陽(じょうよう)という地名に、「おおっ」と反応する日本人は、ほぼ100%の確率で三国志ファンであろう。なぜなら、そこは三国志(後漢)の時代、荊州の首都・襄陽城があったところ。一般の人が聞いてもわからないが、三国志好きにはわかる。そんなところだ。 ■「三顧の礼」の物語がプレイバックする三国志紀行 劉表(りゅうよう)のもとに留まる劉備が、自分の太ももの肉を見て「髀肉」(ひにく)を嘆じ、蔡瑁(さいぼう)に追われて「檀渓」を飛び、徐庶と出逢った場所。そして何より諸葛亮(孔明)を迎えた「三顧の礼」の舞台が襄陽城に近い隆中(りゅうちゅう)であった。今回は数年前に訪れたご当地の様子を紹介したい。 ■黄金に輝く巨大諸葛孔明像が見守る街・樊城 湖北省の東襄陽駅から市街地まではバスで10分程度。まずそこからタクシーで樊城(はんじょう)方面にある「諸葛亮広場」へ行ってみた。そこには、黄金に輝く諸葛亮像があった。巨大だ。高さ10数メートル、お台場ガンダムのようだ。まるで諸葛亮が「襄陽へようこそ」と歓迎してくれているようであった。 この広場の付近に樊城の跡がある。西暦219年、関羽がここを守備していた曹仁を攻めた「樊城の戦い」の舞台だが、今は諸葛亮がその街を見守っている。 そこから南が襄陽の街。東西に流れる漢水は長江の支流で、それを挟んで北が樊城、南が襄陽という位置関係になっている。襄陽はかつての劉表の居城。孫堅や孫策の猛攻を受けながらも持ちこたえた要塞で、今も古城一帯が城壁で囲まれている。 写真の城壁自体は宋~明代に改築された、少し新しい時代のものながら、この地の長い歴史を伝える。近年、中国各地は都市化が進んだところも多く、過去には文化大革命が吹き荒れ貴重な文物が失われた過去も持つ。だが、この襄陽城のような歴史遺産も数多く残されている。 襄陽の街から西へ10㎞ほど離れた場所に位置するのが、諸葛亮が暮らしていた隆中(りゅうちゅう)。今は「古隆中」と呼ばれ、公園化されており、連日大勢の人が訪れる観光名所だ。 程良く自然が残る園内には諸葛亮の草庵が復元され、三顧の礼の様子を再現する諸葛亮や劉備の像がある。関羽、張飛が屋外で不機嫌そうに待つ様子を再現した銅像もあって面白い。その妻・黄氏を祀る廟などもあり、のんびりとしたなかに、実在した英雄たちの面影を感じさせる。 “草堂の周りは早春の光なごやかに幽雅な風色につつまれている。ふと、堂上を見れば、几席のうえにのびのびと安臥している一箇の人がある。これなん、孔明その人ならんと、玄徳は階下に立ち、叉手して、彼が午睡のさめるのを待っていた。白い、小蝶が、牀のあたりにとまっていたが、やがて書斎の窓の下へ舞ってゆく。” (吉川英治『三国志』より) ……こんな情景を思い浮かべながら歩いた。ところで「三顧の礼」の舞台はもう少し北の南陽という説も根強いものがあり、昔からご当地論争がある。日本の「桶狭間」なども同様で、数少ない史料の記述から推し量るしかない。 襄陽市街に戻ると、広場で見た孔明の巨大銅像の写真がラッピングされた「孔明バス」が走っていた。みれば白酒(バイジュウ)の地元ブランド「古隆中」の広告であった。孔明ラッピングのバスなら、毎日でも乗ってみたい。 そして街には孔明超級市場(スーパー)も。日常に諸葛亮が溶け込んだ襄陽。また行きたい街のひとつである。コロナ以降は行きづらく、一部の方を除けば近くて遠い国になってしまった印象も強い中国だが、またいずれ訪ねてみたいものである。 余談ながら、襄陽へ行くには武漢あたりへ飛行機で飛ぶのが一番いい。だが筆者は初めて襄陽を訪れたとき、夜行列車に乗った。中国の広大さを感じたいと思ったからだ。上海の空港から上海駅へ出て、22時12分の列車で出発。襄陽東駅に着いたのは翌朝の昼ごろだった。 日本ではブルートレインなどの寝台列車は殆ど絶滅したが、中国の寝台列車には食堂車もあればワゴンでの食事の車内販売サービスなど、どこか懐かしい光景がまだ残っている。
上永哲矢