写真は時代の証明 時代の顔を撮り続けたい ── 写真家・加納典明が語る
そもそも写真自体が撮りにくい時代になったよね
──先ほどの出た「写真家が行きにくい時代」についてもっとお話聞かせてください。 雑誌の数が少なくなっている事とか、デジタル化が進んでるからって問題以外に、そもそも写真自体が撮りにくい時代になったよね。例えば、渋谷の五差路があるでしょ。世界的に有名な信号だから外国人も東京に来ると必ず撮ってるわけ。でも日本人のプロカメラマンは、ほとんど撮らない。アマチュアも気をつけて撮っている。なんでかというと、警察が立っているんだよ。あの人に撮られたんですけどって誰かに言われたら、警察も仕事だから何撮ったんですかとなる。そんな面倒に巻き込まれたくないから、撮らなくなる。カメラ雑誌でさえ、人の顔が写っている写真が出しにくくなってしまった。時代の顔が残らない時代になってしまったんですよ。100年200年経った時に、きっと今の時代について、あの時代の空白は何なんだ?ってことになりますよ、絶対に。 写真家の立場からすれば、同じ時代を生きる人間としての責任だと思っているんだよ。だから僕は、時代の顔を撮って残したい。捕まえてほしいわけじゃないよ、煩雑なことは沢山経験してるからやりたくないけど、でも撮りたいものは撮る。だって写真家だからさ。それで問題があるんだったら、戦いますよ。写真家はやっぱり向かっていくべきだと思うんだよね。 そういえば、幼稚園児の子たちが10人位並んでシャボン玉をやっていて、その姿がかわいかったから写真を撮ったんですね。そしたらすぐに保母さんが出てきて、困ります!となるわけだよ。でもさ、これもどっかのアホが地下鉄で女性のスカートの中を携帯で撮ったりするから、っていうのもあるんだよね。そういう少数のために、文化が失われていくというのは、はき違えもいいところ。僕が言いたいことは、映る側も目覚めてほしい。時代者たることに対して自信と責任と勇気を持ってほしい。 いまの社会全体に言える事だね。ここは考えどころですよ。人間生きてりゃいろんなことがある。プライバシーは尊重すべきだし、されるべきだけども、それをやっていたら写真は残らないし、時代は証明されない。この時代に生きたという、楽しかったこと、悲しかったこと、苦しかったことを残すべきだよ。土門拳が下町の子どもたちを撮ったように、荒木(経惟)だって撮ってる。縄跳びしたり、めんこやったり。今そういうの撮ろうとすると、子どもたちも親に言われているから逃げたりする。悲しいね。今後そういう問題が、もっと浮き彫りになって裁判沙汰にもなるだろうけど、あっていいと思う。俺はそれでも撮りたい物は撮るし、訴えたければ訴えろよと腹は括ってますよ。