いったい何が書いてある?ゴーン時代の日産自動車社長が回顧録出版で業界騒然…ジャーナリスト・井上久男が「本の読みどころ」を一挙に明かす
---------- 白熱の回顧録がいよいよ出版される。日産自動車はもとより、全国の自動車業界関係者がこぞって注目する手記『わたしと日産』が、いよいよ5月15日に全国発売される。この本は何が凄いのか。読みどころは何か。ジャーナリスト・井上久男氏が読み解く。 ---------- 【写真】GSとリーマン 投資ファンドを手玉に取った日本人がヤバすぎる
日本の自動車産業の興亡史
本書『わたしと日産』ではタイトル通り、西川廣人・前日産自動車社長が1977年の入社以来、2019年に社長を退任するまでの40余年にわたって、日産という巨大企業に翻弄されながらもどう向き合ってきたかが赤裸々に綴られている。その内容は、日本の自動車産業の興亡史的な一面がある。 日産が経営危機に追い込まれてルノーと資本提携する1999年までを「前半戦」、それ以降を「後半戦」と自身の会社人生を位置付け、「全く違う会社で働いていたような感覚だった」と西川氏は振り返っている。 「前半戦」では、配属された購買部門でビジネスキャリアをスタートさせ、入社3年目に米国に社費留学。英語力を身に着けたことが描かれている点などからは大企業のビジネスパーソンとして出だしは順風満帆だったことが窺える。 ところがその会社人生に激動の波が襲い掛かってくるのが「前半戦」終了部分からだ。日産は競合のトヨタ自動車やホンダに先駆け英国や米国で現地生産を加速させ、グローバル化で先行する。しかし、現地化をしても本社の管理体制は旧態依然の輸出産業としてのままで、グローバル経営の能力が欠けていた。 そこに1990年代前半のバブル経済崩壊が襲い掛かり、過剰な国内生産能力が日産の経営を蝕んでいく。90年代半ばに入ると、「巨額の負債を抱え、日産は倒産するのではないか」との見方さえ出始めた。 当時社長だった辻義文氏が主力生産拠点の座間工場の閉鎖に踏み切った。西川氏は辻社長付の秘書課長として経営危機の最前線を目の当たりにした。そこで感じたことは、会社全体を見渡して議論し、悩み、意思決定するのは社長ただ一人だ、ということだった。他の役員は自身の担当領域の最適化にしか目が行っていなかった。 さらに名門巨大組織に危機感を醸成させる難しさも痛感した。辻社長時代、「座間工場の閉鎖をはじめ、のちのゴーン改革を先取りするような先進的な施策も行われたのだが、当時はバブル期の経営陣も多く残っており、残念ながら社長が抱いていた強い危機感が在任期間の4年間では社内の末端までは届かなかった」と西川氏は言う。その時に組織を引っ張るリーダー次第で組織は大きく変わる可能性も感じた。
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