【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第22回 <スウェーデン大使館ーー王政500周年で始まるリノベーション>
■帝国ホテルから始まった公使館
外交関係が始まっても、スウェーデンは同君連合を組んでいたノルウェーと共に外交をオランダの公使に委任していました。独自の公使を送ってきたのは1906(明治39年)。ノルウェーとの連合を解消した後でした。『明治天皇紀』には、1907(明治40年)1月12日、初代公使のグスタフ・ワレンバーグが明治天皇に信任状を提出して謁見したことが記されています。日本はその3年前にスウェーデンに公使館を開いています。
当時の日本に洋館は少なく、事務所は帝国ホテル内に置かれました。歴代の公使たちは外交の拠点にふさわしい場所と建物を求め、築地、麻布、赤坂、麹町と15回近い引っ越しを重ねます。1939(昭和14)年、日本に住むスウェーデン人たちの寄付により現在の大使館が建つ用地を取得します。しかし、先の大戦が始まって公使館建設は凍結されてしまいました。 ちなみに、イギリス大使館は1872(明治5)年から現在の千代田区一番町に、アメリカ大使館も1890(明治23)年に今の港区赤坂に公使館を構えていますから、戦後まで仮住まいが続いたスウェーデンの苦労がしのばれます。
■大戦中は東京と軽井沢で活動
大使館の歴史をまとめた『東京スウェーデン大使館』(スウェーデン国家公共建物庁)という冊子の中に、戦時中、公使館は軽井沢の洋風の一軒家に疎開し、職員が東京と軽井沢で交替勤務をしたことが記されていました。
事実関係を調べる中で、『アウトサイダーたちの太平洋戦争――知られざる戦時下軽井沢の外国人』(高川邦子著、芙蓉書房出版)という本に出会い、戦時中の日本に多くの外国人が暮らしていたことを知りました。 戦争が始まると政府は外国人の旅行を制限し、横須賀軍港や横浜港などが見える地域に外国人が住むことを禁じます。さらに、終戦の年の6月には「保護」と「防諜」を名目に外交使節を含む外国人を国費で強制疎開させます。ドイツの人は山梨県の河口湖畔、ソ連(当時)やバチカンなどの人は神奈川県の箱根、スイスやスウェーデンなどの人は長野県の軽井沢へ。軽井沢には外務省の出張所が置かれ、公使も駐在しました。アメリカなど交戦国の外交官や民間人は交換船で日本を離れていました。 高川さんの本には、軽井沢の外国人は強制疎開が始まった時点で千数百人、スウェーデン公使館関係は家族を含めて23人という数字が示されています。軽井沢にはロシア革命から逃れてきた白系ロシア人や、ドイツなどから逃れてきたユダヤ人などの一般の人たちもいました。食料の配給はあってもとても足りず、みな近郊の農家へカメラや衣服を持ち込んでは食べ物に換えてもらう厳しい生活だったそうです。