【皇室コラム】「その時そこにエピソードが」第22回 <スウェーデン大使館ーー王政500周年で始まるリノベーション>
■スウェーデンで行われた和平工作
外務省の『終戦史録』(1952年刊)に「バッゲ工作」という項があります。1937(昭和12)年から1945(昭和20)年にかけて日本に滞在したウィダー・バッゲ駐日スウェーデン公使です。 『終戦史録』にはバッゲ公使が東京裁判に提出した「供述書」の一部も添えられています。それによると、バッゲ公使は親しい友人から日本は戦争で得た領土を返すほか、満州国も放棄する心積もりがあるので、スウェーデン政府からイギリス政府に探りを入れてもらえないかと相談され、小磯國昭内閣の重光葵外相とも会って一役買おうと意を強くします。1945(昭和20)年4月、本国政府に諮り、スウェーデンの日本大使と連携しようとシベリア経由で帰国していきました。 ところがです。日本を発つ直前に小磯内閣が倒れて鈴木貫太郎内閣になり、外務大臣も重光葵から東郷茂徳に代わります。バッゲ公使は東郷外相に会えないまま出発し、ストックホルムに着いてすぐ日本公使館に岡本季正公使を訪ねますが、公使は初めて聞く話に驚きます。日本に照会しても返事は「前内閣当時に行われたことは、とくに調査してみる必要があるから、相当時日を要するものとご承知ありたい」という素っ気ないもので、「バッゲ工作」は消えてしまいました。 そのころ、ストックホルムには駐在武官の小野寺信・陸軍少将がいて、当時のグスタフ5世の甥のカール王子と接触してスウェーデン王室を通じた和平の道を探っていました。しかし、動きがスウェーデンの新聞に報じられ、日本から釘を刺されてこちらも頓挫してしまいます。はるか離れた北欧の地で和平を模索する動きがありました。
■ポツダム宣言の受諾ーー英国・ソ連への連絡はスウェーデン政府に要請
1945(昭和20)年8月10日、日本は御前会議を経てポツダム宣言の受諾を決定します。『昭和天皇実録』によると、この時、日本は、イギリスとソ連への連絡をストックホルムの日本公使を通じてスウェーデン政府に要請しています。アメリカと中国への連絡はスイス政府に依頼しました。 毎日新聞によると、スイス政府は日本から依頼を受けた10日から終戦の15日にかけて徹夜の態勢を敷いたそうですから、スウェーデン政府も同じような態勢をとったことが推測されます。日本の重大局面にスウェーデンは大きく関わっていたのです。