「売名行為」と言われても 被災者に届けた演奏300回 日本フィルの13年 #知り続ける
多くの命が奪われた地で、故郷を失った人々を前に、音楽に何ができるのだろう。東京を拠点とする日本フィルハーモニー交響楽団は東日本大震災の発生まもないころから被災地に音楽を届けてきた。「演奏なんかやっている場合か」「売名行為じゃないのか」。時には批判を浴び、悩みながら重ねた演奏は300回を超える。なぜ、彼らは音楽を届け続けたのか。 【写真まとめ】津波被災地で手を合わせる日本フィルの楽員たち
「音を出すことが怖い」
東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から、まだ1カ月もたたない2011年4月6日。日本フィルの楽員3人は福島県二本松市にいた。 香港公演で現地の人々から託された支援物資の乾電池を日帰りで届けるためだ。二本松市には、原発20キロ圏に入り、全町避難を強いられた浪江町の町民が身を寄せていた。 「もし許可をもらえたら演奏しよう」。トロンボーン、バイオリン、ビオラを念のため車に積み込み、東京を出発した。町側と乾電池を届ける手はずは整えたが、演奏の約束は取り付けていない。そもそも、この三つの楽器は編成としていびつだった。
二本松市役所東和支所の臨時町役場であいさつした馬場有(たもつ)町長(当時)=18年に69歳で死去=は、いかに未来の見えない避難生活を町民たちが送っているかをとつとつと語った。 「この先何十年とかかるか分からない道のりの始まりなんです」。ビオラ奏者の後藤朋俊さん(62)は町長の言葉を受け取り、「とても演奏を聴いてもらうような段階ではないかもしれない」と思った。 臨時役場の近くの避難所で町民たちの姿を目にしたバイオリン奏者の松本克巳さん(70)もトロンボーン奏者の伊波睦さん(67)も「ここで音を出すことが怖い」と感じた。人々の表情も生活音も空気も、なにもかも張り詰めていた。
いびつな編成でも開いた心
それでも3人は「もしよろしければ、音楽もお届けしたい」と申し出た。避難所の中で演奏するのははばかられたが、外なら聴きたい人が足を止めてくれるのではと思った。避難所の入り口付近に譜面台を立てた。 50人ほどが耳を傾ける。美しい旋律から始まる「タイスの瞑想(めいそう)曲」に、映画「サウンド・オブ・ミュージック」から「すべての山に登れ」。そして、ロシア歌曲「赤いサラファン」。 よく晴れた日だった。優しく伸びやかな音色が周囲の山に響いた。 演奏が終わると、3人に背を向けるように、段差に腰掛けていた高齢の男性が松本さんに声をかけてきた。「音楽を聴いてこんなに涙流したことないよ」。潤んだ目をこちらに向けた。 「迷いは当然ありました。音楽どころではない人もいたでしょう。でも、音楽で開く心もあるのだと思いました」。松本さんは振り返る。