「売名行為」と言われても 被災者に届けた演奏300回 日本フィルの13年 #知り続ける
スポンサーなく苦しい台所
日本フィルは変わった歴史を持つ。1956年、フジサンケイグループの文化放送専属オーケストラとして誕生し、フジテレビとも専属契約を結んだ。 しかし、72年に両社側がオケ解散と楽員の解雇を通告。オケの労働組合が雇用関係の確認を求めて両社と裁判で争い、一部が「新日本フィル」として分裂した。残った楽員は存続を応援してくれる人々の元に出向いて演奏を続けた。 「市民とともに歩むオーケストラ」として、オケの演奏と無縁だった地域にも繰り出し、地元の人々と交流した。和解するまでの12年の歳月は「日フィル争議」と呼ばれる。 和解は両社側が労組側に解決金を支払う内容で、85年に再出発した。だが、約90人の楽員がいる今も、大きなスポンサーを持たず、公演収入が運営の柱の苦しい台所事情は続く。それでもフットワークの軽さは受け継がれてきた。
阪神に届けた「心の栄養」
95年1月17日の阪神大震災の被災地にも、日本フィルは音楽を届けている。震災1カ月後、兵庫県芦屋市立精道中を皮切りに、阪神地域の避難所や病院などで小さな演奏会を重ねた。 「なぜわざわざ東京から行くのか。売名のためではないか」。疑問を投げかける同業者もいた。オケ内部にも反対する声はあった。 現地との調整役を担った日本フィル元職員の富樫尚代さん(73)は「音楽は食べられない。必要とされていない。そんな意見もあった」と振り返る。一方で、「応援しているという心を音楽で届けたい」という楽員たちがいた。 あらゆる場所で演奏をしてきた経験があり、全国各地にファンがいる日本フィルならできる。その自負が富樫さんにはあった。 日本フィルに寄せられた声も「義援金を届けてほしい」より「音楽を届けてほしい」だった。被災地に負担をかけない方法を模索しながら、雨の降る校庭や仮設住宅の空きスペースで演奏した。 兵庫県西宮市で避難所運営に携わっていた男性(82)は、30年近くたった今も鮮明に演奏会を覚えている。「音楽を聴いて、お化粧を再開したり、笑顔が戻ったりした被災者がいました。あの時、音楽は心の栄養なのだと思いました」