「再生のモデルは新興国にあり」──文明の大転換に取り残される日本
日本がモデルとすべきは新興国
社会制度の錆びつきにはたびたび警鐘が鳴らされ、中曽根内閣のころから、改革、改革と唱えられてきた。国鉄民営化のように一部進んだものもあるが、社会全体には及んでいない。ここまでくると、改革以上の大変革が必要なのかもしれない。 日本の歴史において、新しい文明に対応する大変革としては、大化改新(最近は異論がある)以後の律令制度の確立と、明治維新以後の文明開化があった。二つの大変革のあと日本は大発展したのだが、そこには見習うべきモデルがあった。古代には中国、近代には欧米である。 しかしバブル経済の崩壊後、日本にはモデルが見当たらない。むしろ色々と問題のある外国と比べて、日本はいい国という意見が多い。 情報社会の先進モデルとしてアメリカを追ってはいるが、インターネット系の企業、特にGAFAと呼ばれる、グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンといった企業にはとても追いつかない。むしろ新興国のほうが、そういった企業のマインドとノウハウを取り入れているようだ。AI(人工知能)の研究開発にも力を入れている。ひょっとすると今の日本にとって、現実的なモデルは新興国にあるのかもしれない。 首相に復帰したマレーシアのマハティール氏はかつて、「西洋ばかりを追うのではなく東洋(日本を指す)を見習え」という意味の「ルックイースト」政策を掲げて、経済発展を軌道に乗せた。彼なら「今は日本がルックイーストするべきだ」と言うのではないか。一度意見を聞いてみたい。
他国を見下す意識は凋落のもと
日本のマスコミは新興国社会の実情をみて、その問題点ばかりを取り上げる傾向がある。民主主義、人権、環境といった点に先進国の物差しによる社会正義を適用して批判する。しかしそういったつくりのテレビ番組の中でも、新興国の人々が元気よく働き、にこやかに暮らしている姿を垣間見ることがある。そういう姿を伝えることも必要ではないか。 歴史を鑑みても、凋落に歯止めのかからない国は、必ずといっていいほど、先進意識、優越意識があって他国を見下しているものだ。個人でも、企業でも同様である。日本はユニークな素晴らしい文化をもつ国だが、先進意識にすがりついていていいことはない。虚心坦懐が大切である。 とはいえ、血を見るような革命は嫌だし、ここまで成熟した日本社会の良さを捨てるのは寂しい。慌てる必要はないような気もする。良い点を残したまま、情報社会の経済体制という点に絞って、新興国の元気にならおうというのは、虫が良すぎるだろうか。 先に『渋谷ハロウィーンの文化論──「騒乱・聖地・仮装」』で書いたように、若者は50年の政治的沈黙を保っているが、こういった改革は若い人に期待するほかはないのだ。