「鳥肌が立つ、確定申告がある。」知的障害のある息子と歩んだでこぼこ道
■「お願いだから普通に書いて」…文字や数字をアレンジする“くせ”が“作品”に
学校が大好きだった覚さん。「学校を休ませるよ」と叱ると「ごめんなさい!」と謝るくらいだったという。8キロ先の特別支援学級がある小学校への送り迎えのため、眞喜子さんは運転免許を取った。 母・小林眞喜子さん 「釜石でも1、2を争う厳しい道路を初心者の私が毎日送り迎え。覚は元気に通っていましたが、うちの窓から見える小学校を見て『覚くんあの学校に行きたい』って私に言ったことが1回だけありました。『覚はあの学校に通えないんだよ』って時間をかけて話して聞かせて、それ以後は言いませんでした」 しかし、転校は悪いことばかりではなかった。小学4年生になったとき、今の覚さんの原点とも言える出会いがあったのだ。 母・小林眞喜子さん 「覚は1年生の時から夏休みや冬休みの宿題を全くできなくて。なのでスケッチブックに絵日記を描かせて、それを学校に提出していたんですね。それまで先生たちから反応はあんまりなかったんですけれども、4年生の時の先生が褒めてくれて。『楽しい』『素敵だ』『覚くんの優しさとか、何を楽しいって思ったのかわかる』って。『これを続けたほうがいい』って、先生が褒めてくれたんです」 「なんか生まれて初めて褒められたような感じで。すごく嬉しかったです」 先生の言葉を受けて、眞喜子さんは覚さんに毎日絵日記を描かせることにした。それは高校3年生まで続いたという。
覚さんのアート作品は、文字や数字をアレンジしたデザインが特徴的だが、そのスタイルを伸ばせたのも、学校の先生との出会いがあったからだった。 養護学校(当時)に通い、中学2年生になったころ、国語の時間に「こばやし さとる」とひらがなで名前を書く練習をした。そのとき、なぜか覚さんは「ば」の濁点を4つ打ったのだ。父親の小林俊輔さんによると、このころから文字をアレンジして書くことが増えていったという。 父・小林俊輔さん 「学校から持ち帰ってきたプリントの名前の欄に『小林覚』って漢字で書いてあったんですけれども、その『林』が『木』を“縦に”2つ並べていたんですよ。『困ったもんだな』って思ったのが、私が気づいた漢字のアレンジの始まりでした」 母・小林眞喜子さん 「それまでは絵も字も上手に普通にかいていたんです。それが絵は人を描くとお猿さんのような顔になって、字は縦横に伸びて変化させて書いて、『覚の心の中で何が起きているのか?』と不安になって…覚に『お願いだから普通に書いてちょうだい』って何度も頼みました」 はじめは両親も、先生も、文字や数字をアレンジして描く“くせ”を直そうと指導したが、直らない。そのうち、養護学校内外から「不思議な字だけど、これはアートだ」「すごい子どもと出会った」と注目を浴びるようになった。