消えゆく「居場所」、避けらない「死」――の小説には、そこに確かにあった「何か」を心に甦らせる「魔法」がある。
『ここはとても速い川』で野間文芸新人賞を、『この世の喜びよ』で芥川龍之介賞を受賞した、いま最も注目の詩人・小説家の井戸川射子。彼女の待望の新刊にして初の長編小説『無形』が発売された。立ち退き勧告が進む海辺の団地に住まう人々の季節と記憶を掬いあげる――。本作でさらにスケールアップした井戸川ワールドの魅力を読み解く、あわいゆきさんの書評をお届けします!
あったはずの「何か」を思い出す――。
数年前、国立科学博物館に行ったとき、幼いころに「恐竜図鑑」で目にしたものとは異なるすがたに復元された恐竜がパネルに示されていて、無性にこわくなったのをおぼえている。積年の思い込みが裏切られたから、ではない。目の前に展示されている「骨」がもしどこにも残っていなければ、私たちはなにも復元できなかったのではないか、恐竜がいたことすら気づけなかったのではないかと、疑念に囚われたからだ。 久しぶりに地元まで帰省し、家と家のあいだにあるまっさらな空き地を目にしたときにも、似たような感覚に陥る。かつてあったはずの「何か」を、私は確かに毎日見ていたはずなのに、証拠となりそうなものが見つからず、存在すら疑わしく思えてしまう。 はたしてなにもないように見える空間から、あったはずの「何か」を思い出すことはできるのだろうか。 井戸川射子さんは、特定の空間と、その内側に刻まれる感情や記憶を描き続けてきた。野間文芸新人賞受賞作『ここはとても速い川』では児童養護施設にいる子どもたちを、芥川賞受賞作『この世の喜びよ』ではショッピングモールにやってくるひとたちの多様さを描きながら、同じ空間のもとで思いが交わされる一瞬の美しさを言葉にしてきた。 初めての長編となる『無形』で舞台となるのは、全盛期もとうに過ぎ、いまでは土地開発の煽りをうけて立ち退きの勧告が進んでいる団地だ。登場するのは団地に住まい続けて歴史を見届けてきた老人のカンと孫のハンナ、親に見捨てられた姉弟のオオハルとウルミ、まだ幼い小学二年生のタイラと、彼を心配する兄のタミキ。仲良し小学生のリユリとマオに、近所の犬を連れて散歩をするフサ……多くの人物が描かれながらも、語りの中心となる人物は頻繁に入れ替わり、昨今は見かける機会も減った「三人称多元視点」を積極的に採用している。 改行もされないまま句点ごとに変わっていく視点に、最初こそ戸惑いや目まぐるしさをおぼえるかもしれない。しかし、団地に刻まれていく多くのひとびとの感情や記憶を目の当たりにするにつれ――まるで団地にかかわる人間が「骨」となって、団地そのものが語り手となっていることに気付かされるだろう。これまで「空間」として描かれていたものは「長編」というスケールを獲得して、おおきな生きものとなって立ち現れるようになった。団地に息づくエピソードの一つひとつは、団地そのものの息遣いとしても、魅力的に語られていく。 そして、生きものらしい愛着を抱けるからこそ、団地と人間はまったく異なるようで似ているともわかる。あらゆる建物は支えとなる骨があり、その内側に空間がつくられることで、さまざまな記憶が刻まれる。そこに住まう人間も骨によって体をつくりあげているから、外の世界と接することができ、豊かな感情や記憶を手にできる。そうして空間のなかに空間がある構造を示しつつ、本作では時間をまたいだ価値観の違いも丹念に描かれていた。団地が賑わっていたころを知る世代、団地で生まれ育った世代、団地にこだわりのない世代と、団地に対する想いも人それぞれで異なる。時間が積み重ねられている実感は、より団地を生きものたらしめると同時に、読者の立場や年齢を限定しない広い共感をうむ。 一方で、時間のなかを生き、「骨」によってかたちを成しているからこそ――いつかかたちがなくなることへの恐怖も常に付きまとう。団地が取り壊されようとしているように、あるいは人間が衰え、やがて死を迎えるように。団地の取り壊しに反対し、祖父のカンが亡くなったときの喪失に怯えるハンナは特に顕著だ。記憶が不確かなものだからこそ、証拠となるもののかたちがなくなってしまえば、そこにあったはずの思い出もいつか思い出せなくなり、最初からなかったことになってしまうのではないか――そう不安に苛まれる。 だが、だからといって盛者必衰の理をただただ受け入れ、絶望して生きるわけにはいかない。作中では「骨」をどう育んでいくかを通して、希望が描かれている。 ハンナが従事し、ウルミも経験するベビーシッターは、まだやわらかい骨を守り、成長にかかわっていく仕事とも形容できるだろう。幼い子どもは他者とかかわりあい、思い出をつくることで骨を固めていく。一方で、干渉しすぎると骨は歪んでしまうから、主体的に骨をかたちづくっていく必要もある。だからハンナをはじめとする大人たちの多くは、子どもに対して責任を持ちながらも負いすぎず、ときには見過ごす。そしてマオやタイラのような子どもたちも、幼さゆえの失敗をしながら成長していく。ひと同士のかかわりあう距離が繊細に描かれることで、物理的に存在する骨だけではなく、各々に刻まれる思い出も「骨」となってかけがえのない個人を形成するのだと丁寧に示される。 かたちのない思い出も、無形でありながら有形――かたちをつくる「骨」になるのだ。 実際、「思い出は、四方どこからでも入れる建物だ」と作中でとある人物は語る。「空間のなかに空間がある構造」は必ずしも団地と人間のあいだのみに留まらない。人間のさらに内側、かたちのない思い出にも「骨」はあるのだから。 そしてこれは、逆方向にも広げられるだろう。語り手然としていた団地そのものも「骨」の一部分であり――おおきすぎるあまり目に見えない、遠い過去から生きつづけている「自然」のかたちをつくっているのだと。 だから、一見なにもないように見える空間もその実、膨大な思い出が残された自然の一部なのだ。たとえかたちがなくなっても、自然は「最初からなかったことになってしまう」不安を否定し、生き証人になってくれる。自然とかかわっている限り、あったはずの「何か」が忘れ去られることはなく、思い出しもできる。 目に見えない思い出から壮大な自然まで、すべてはかかわりあっている――長編かつ群像劇だからこそ辿り着けたスケールに、圧倒されるに違いない。 『無形』は一冊の本のかたちをした骨でもある。活字をまとい、手に取った私たちに多くの感情を与え、思い出として心の奥に刻まれるだろう。だが、手元に本がなくとも、思い出がなくなるわけではない。ふたたび『無形』を手にしたときはもちろん、広すぎる世界を見渡し、有形無形の自然に触れたときにも、本書を通じて出会ったあらゆる感情たちを鮮やかに思い出せるはずだ。
あわい ゆき(書評家・ライター)