「僕のせいかな?」柴田勲さん、盗塁巡り“騒動” 巨人20年以上キャプテン空席に
巨人球団創設90周年記念の連続インタビュー「G九十年かく語りき」の第5回は、主に1番打者としてV9に大きく貢献した柴田勲さん(80)の登場だ。日本初の本格的なスイッチヒッターは、代名詞とも言える赤い手袋とともに、縦横無尽にグラウンドを駆け巡った。時代の先駆者だった柴田さんが振り返る「喜怒哀楽」とは―。(取材・構成=湯浅 佳典、太田 倫) 長く生きてりゃいろいろあるけど、腹が立ったといって思い出すのは、76年のこと。長嶋さん、王さんの後を受けてキャプテンになった年だった。それまで4回も盗塁王になっていた僕は、長嶋監督から「走れる時は自由に走っていい」ってお墨付きをもらってたんだ。 ある試合で、1点ビハインドで中盤を迎えた。1死二塁でバッターは張本勲さん。二塁走者だった僕が、盗塁を狙ってアウトになってしまった。すると三塁コーチだった黒江透修さんに「なんで走った?」と問い詰められたんだね。 「1死三塁にすればゴロでも犠牲フライでも同点になる。だから走ったんですよ」 「いや、負けてるあの場面でいくのはおかしいだろう」 「じゃあ、サインで走らせてくださいよ!」 すったもんだ、モメたんだよね。王さんからも「コーチにあんなふうに言っちゃダメだ」と諭された。僕は間違ったことは言っていないと思っていたけど、まあ、首脳陣批判になるからね。 この騒動が、監督やフロントの耳にも入ったんだろう。オフにヤクルトの浅野啓司投手とのトレードを通告された。でも、僕はヤクルトには行く気がない。巨人を出されるならやめますって拒否した。それはそれで球団としても困るんだろうから、最終的には倉田誠投手とのトレードに落ち着いた。 キャプテンはその1年でクビになった。それ以降、巨人はキャプテンを置かなくなった。98年の吉村禎章まで20年以上も空席だったんだよ。僕のせいかな…? ◆柴田 勲(しばた・いさお)1944年2月8日、横浜市生まれ。80歳。法政二時代、エース兼主力打者として60年夏、61年春の甲子園で連続優勝し、62年に巨人入り。この年6試合で0勝2敗に終わり、翌年から外野手に転向。俊足の1番打者として盗塁王を6度獲得。通算2208試合に出場。2018安打、708打点、194本塁打。打率・267。通算盗塁数579個は現在もセ・リーグ記録。
報知新聞社