ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄
ご飯を盛るとハエで真っ黒に
硫黄島に到着したパイロットたちがまず目にしたのは、劣悪な環境だった。 「今までいたことのあるラバウルやソロモン諸島の基地なんかに比べて、最悪でした。ハエの多さも忘れられません。中国や南方の戦線にもハエは多かったのですが、そんなものの比じゃなかった。初めて硫黄島の飛行場に着陸したときも、風防を開けていたらハエがどんどん飛び込んできて顔に当たるぐらいでしたから。ご飯をドンブリに盛ると、本当にハエで真っ黒になってしまう。1カ月もいると、みんな垢と日焼けで真っ黒になり、髭も伸び放題で熊みたいになるんです」(角田氏) 火山島である硫黄島には、飲料水がなく、雨水を溜めるしかない。むろん、風呂などあるわけもない。 先の岩下氏も振り返る。 「硫黄島で思い出すのは、あの硫黄ガスの何ともいえない臭いです。その高温ガスが島のあちこちからシューシューと噴き出しているものだから、臭くて堪らない。ガスが出ている地面の岩の間に飯盒を置いておくとご飯が炊けるのですよ。物資の補給も満足にできていないので、生野菜などはなく、いつもコンビーフの缶詰や冬瓜の味噌汁のようなものを食べていたのを思い出します」
7月3日の大空襲と翌日未明の大編隊
蚤が多いのにも辟易したという。 「なんであんな人も動物もいないところに、こんなに蚤がいるんだろうと不思議でした。島では千鳥飛行場のそばの丘の上にバラック建ての兵舎があり、そこで士官も兵隊も一緒に寝起きしていましたが、夜、寝床に就くと体のあちこちが痒くなって、見ると無数の蚤がくっついているんですよ。あれは本当に堪らなかった。敵の空襲がいつ来るかという状況でしたし、寝床の蚤も酷くてほとんど硫黄島では眠れなかった」 だが、硫黄島に到着したのも束の間、すぐに激しい戦闘に巻き込まれた。7月3日の大空襲で、301空は31機出撃し17機が未帰還となった。さらに、「7月4日未明、突然“父島上空に敵大編隊!”の緊急電が入ったのです」と岩下氏は話す。 「当時の日本のレーダーである電波探信儀は性能が悪く、かなり敵が接近してくるまで分からないような代物でした。案の定、この日も敵機発見の報を受けた時点で、もう敵機は硫黄島に迫っていた。敵機の機銃掃射を受けながら、その間をすり抜けてなんとか離陸したのです。まだ夜明け前で真っ暗でしたが、私は藤田隊長機に遅れないようついていきました。高度を上げるために少し島を離れ、再び硫黄島の上空に戻ると、飛行場など我々の施設が敵機の猛爆撃を受けていて、あちこちから爆炎や黒煙が上がっている最中でした」 *** 前日より規模を増したこの攻撃は、硫黄島の飛行場や施設、航空機をほぼ破壊した。度重なる空襲と艦砲射撃で壊滅状態になった航空隊は1944年7月6日、生き残った搭乗員に帰還命令を出す。第2回【「部下や仲間がどんどん死ぬので、悲しいという感覚がなくなっていた」…玉砕前の硫黄島で零戦パイロットが敢行した決死の爆撃】では特攻作戦への切り替え、最後に敢行された決死の爆撃などについて伝える。
デイリー新潮編集部
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