ご飯がハエで真っ黒、大量の蚤、異様なガスの臭い…「硫黄島」で零戦パイロットが見た地獄
硫黄島から帰れないかもしれない
硫黄島は、東京から南に約1250キロメートルの地点にある。昭和19(1944)年6月15日、米軍はサイパン島上陸と同時に硫黄島の空襲を開始。サイパン、グアム、テニアンなどの島を占領した後、超長距離重爆撃機B29による日本本土の爆撃を行うためには、硫黄島攻略は必須だった。 これに対し、海軍は硫黄島に航空戦力を結集した。横須賀航空基地から、八幡空襲部隊、301航空隊などが6月下旬に硫黄島に向かう。301空の隊長が、冒頭に紹介した藤田氏だった。部下の岩下邦雄氏(85)は振り返る。岩下氏は海兵69期。これが初陣である。 「硫黄島には本土から航空戦力が続々と投入されていました。硫黄島の千鳥飛行場には301空の零戦が40機陣取り、もう一方の元山飛行場には横須賀からきた3飛行部隊がいました。戦闘機に雷撃機、爆撃機もあり、全部で200機ほど配備されていたと思う」 藤田氏(当時大尉)と第1分隊長を務める岩下氏(同大尉)が硫黄島に着いたのは6月25日。だが、15日に先発していた第2分隊9機のうち、4機が24日の戦闘で撃墜されていた。
青い海がとても綺麗だった
同様に、6月21日に硫黄島へ向け出発した252航空隊の23機も、やはり24日の空戦で12機を失い、隊長が戦死していた。 「私は6月30日に13機の零戦で硫黄島へ向かいました。隊長が戦死されたと聞いて、何かその戦場に、今までにない不安を感じました。もしかしたら、今回が最後の戦闘になるのではないか、硫黄島から帰れないかもしれない、そんな死の覚悟がありました」 そう話すのは、252航空隊の角田和男氏(88)。昭和9年に乙5期予科練入隊。漢口、ラバウル、ソロモンなどの空で戦い抜いてきた。 角田氏(同少尉)が続ける。 「でも、私の飛行は晴天だったこともあり、青い海がとても綺麗だったのを覚えています。ラバウル勤務以来の南洋でしたからね。約4時間の飛行で、独特の形をした山がある島が見えた。それが硫黄島でした。遠くから見ると綺麗でした。それで、摺鉢山の近くにある千鳥飛行場に着陸したのです。この時に、滑走路の脇に『八幡大菩薩』と書かれた大きなノボリが立っていたのが目に焼きついています。それを見たとき、何とも嫌な感じを受けた。そんな神頼みみたいな精神で戦意を鼓舞しなくてはならないほど、日本の戦況は悪くなっているのか、と思った」