イタリアプロジェクトとバブル崩壊の余波[第1部 - 第3話]
佐藤:国際部で三菱自動車工業を10年ほど担当した頃、大学時代の同級生が独立してオフィスを開設し、少しだけ手伝うことになりました。「手伝う」といっても、オフィスに時々顔を出すくらい。同級生の会社は、イタリアのデザイナーを日本に招いてコーディネートする仕事で、次第に僕もそのような仕事に興味を持ち始めました。そんなとき、渋谷の不動産会社が同級生と同様の事業を立ち上げることになり、「一緒にやってみないか」と声をかけられたのです。これを機に、転職を考えるようになりました。 直属の上司に「転職を考えています」と打ち明けに行きました。その上司は、中村局長(当時は本部長に昇格)と名コンビで知られていて、中村さんは攻めの姿勢でどんどん進めるタイプでしたが、直属の上司は難しい課題やトラブルに対しても辛抱強く取り組み、形にしていくような人でした。部下やクライアントからの信頼も厚く、とても尊敬されていました。 その上司に辞めたいと伝えると、「もう少し考えたほうがいいんじゃないか?」と言われました。すると数日後に「お前が転職を考えている会社のことを調べてみたぞ」と言い、その会社は資金繰りが厳しい状況にあることを教えてくれたのです。 さらに上司は、「もしお前がそういうのをやりたいんだったら、うちでやってもいいんじゃないか?」と提案してくれました。驚きながらも、そこで挑戦させてもらったのが、イタリア関連のプロジェクトです。この懐の深い上司の対応に、心から感動したのを今でも覚えています。
1990年、汐留駅跡地で「Creativitalia」というイタリア展を企画
佐藤:1990年頃、汐留に電通や日本テレビなどのビルが建つ前は、そこに国鉄の貨物ターミナルの跡地がありました。その跡地で、イタリア展「Creativitalia(クレアティビタリア)」を企画しました。スポンサーにはオムロンがついてくれたおかげで、実現できました。
この展示会の設計は、建築家のガエターノ・ペッシェが担当し、図録はグッゲンハイム美術館の元キュレーターであるジェルマーノ・チェラントが手掛けました。日本からも、建築家の磯崎新、デザイナーの三宅一生、プロダクトデザイナーの黒川雅之、インテリアデザイナーの倉俣史朗など、各分野を代表する錚々たる人物が集まりました。