わずか3カ月で全線再開した「のと鉄道」、奇跡的な復旧はどう成し遂げられたのか 共通の目標は「新学期に間に合わせたい」日常を取り戻す光に
菜の花や桜が咲く石川県の能登半島を「がんばろう能登」と書かれた桜色のヘッドマークを付けた「のと鉄道」の車両が進む。七尾市と穴水町の33・1キロをつなぐローカル鉄道は、元日の地震で土砂崩れが2カ所起き、線路や駅舎などがさまざまな被害に遭った。 【写真】22年5月に死去したJR東海の葛西敬之氏、社長時代に明かしていた「新幹線食堂車を廃止した理由」
利用客の大部分は通学目的の学生だ。復旧に関わった鉄道関係者は「新年度、新学期に間に合わせたい」という目標を掲げ、作業に取り組んだ。4月6日に全区間で運行再開。早朝に開催された始発列車の出発式は作業員、地元の住民の涙や笑顔であふれていた。発車した列車を見送った中田哲也社長は「被災者が日常を取り戻す、光になれば」と願う。わずか3カ月で奇跡の全線再開を果たした、その舞台裏を追った。(共同通信=奥山泰彦、村川実由紀) ▽命の危機 2024年1月1日の夕方、およそ10分間で2度の揺れが沿線を襲った。1度目の揺れが収まった数分後に震度6強の2度目が到来し、穴水町にある本社にいた社員は「冷蔵庫や棚が倒れて命の危機を感じた」と振り返る。外に出ると隣接する穴水駅の壁は損傷していた。建物の中にいると危ないと判断し、近くに停車していた車両の中で社員やその家族は一夜を明かした。 地震発生当時、七尾市の能登中島駅に到着した列車には40人ぐらいの乗客がいた。駅から海岸までは約1キロ。大津波警報が発令されたため、乗っていた社員が近くの体育館に避難誘導した。幸いけが人はなく、その後、バスで金沢市まで乗客を送り届けることができた。
▽被災状況に衝撃 石川県輪島市の実家で正月を過ごしていた中田社長は1月2日午後、車でようやく本社にたどり着いた。社員がスマートフォンで撮影した被災状況の写真を見て衝撃を受けた。「土砂崩れで線路が埋まっていたのが2カ所、いたる所で線路が浮き沈み波打った状況になっていた。正直、復旧までにどれぐらいかかるか全く見通しが付かない。本当に大変なことになったと思った」と当時の心境を語る。 過去には大規模災害からの復旧費用を捻出できず、バス路線への転換を迫られるなどしたローカル鉄道は少なくない。長年、住民に愛されてきた鉄道がなくなれば「地域のともしびが消え、人々の心に暗い影を落としてしまう」。不安だけが募った。 ▽JR西日本の人海戦術 のと鉄道は、石川県や地元企業、沿線自治体が出資する第三セクターだ。1988年に国鉄が営業していた穴水町と珠洲市を結ぶ能登線を引き継いだ。1991年にはJR西日本から七尾線の一部区間の運行も移管されたが、七尾駅と穴水駅を結ぶ区間を除いて廃線になっている。 のと鉄道には自前の工事部門がない。被害は広範囲にわたり、とても自社のスタッフだけでは手に負えない。中田社長らが困り果てていたところ、復旧への協力を申し出てくれたのが、のと鉄道の線路を保有するJR西日本だ。鉄道の災害対策を担う独立行政法人「鉄道建設・運輸施設整備支援機構」の職員も現地に入り、1月中ごろには復旧に向けた打ち合わせが始まった。元日に仮の避難所になっていた車両が拠点になった。