【私の視点】 「卵」より「壁」を選ぶ世界
アルモーメン・アブドーラ
15年前の2009年2月、作家の村上春樹がイスラエルの文学賞「エルサレム賞」を受賞した際のスピーチを思い出す。 「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます。そう、どれほど壁が正しく、卵が間違っていたとしても、それでもなお私は卵の側に立ちます」 村上は、壁には名前があり、「システム」と呼ばれていると続けた。システムは人を殺すこともある。卵はかけがえのない人間の隠喩だ。 ガザでは2023年10月7日以来5万人を超す人びとが封鎖された狭い地域で命を落とした。国連によると、死傷者約14万8000人のほとんどが子どもと女性で、世界最悪の人道的な惨劇になっている。多くの歴史書を読んでみると、人間が平和に暮らすことは不可能ではないかとすら思えてくる。 イスラエルによるガザでのジェノサイドやレバノン攻撃、終わりの見えないロシアのウクライナ侵攻、シリア内戦の新たな展開など、軍事衝突と紛争は現代でも後を絶たない。歴史上の戦争の原因または動機をたどると、ほとんどは勢力圏を拡大するための新しい土地の併合と植民地化、あるいは国家の威信や名声、富を脅す行為に復讐したいという願望だ。しかし、戦争の一番醜い面は、異常な集団アイデンティティーによる分断と憎悪にある。 戦争が終わり、握手を交わすリーダーたち 帰らぬ人となった息子をただただ待ち続ける婆さん あの女性も愛しい主人を今も待ち続ける 子供たちも勇敢な父さんの帰りが待ち遠しい 誰が国を売ったのか知る由もない けれど、その代償を払わされた者は確かにいた これはアラブ現代史における最も偉大なパレスチナ詩人の一人、マフムード・ダルウィーシュが残した言葉である。戦争はいずれ終わりが来る。しかし、戦争が終わった後も、破壊の爪痕は計り知れない。戦争は人びとの暮らしのすべてを変えてしまい、集団を憎悪のかたまりにしてしまう。これこそ、戦争の本質である。 国際社会の主要なプレーヤーは、自ら作ったルールすらも尊重しなくなった。国連の安全保障理事会常任理事国による侵略や、不適切な拒否権の行使などは、安保理そのものを機能不全にしてしまった。その結果、世界は深刻な事態に直面しても、何もしないか、何もできない状況にある。 世界はどうやら、「卵」より、「壁」を選んでいるようだ。 =文中敬称略
【Profile】
アルモーメン・アブドーラ 東海大学国際学部教授。エジプト・カイロ生まれ。在日歴28年以上。学習院大学大学院人文科学研究科で学び、博士号を取得。NHKや外務省などで通訳としての長いキャリアを持つ。著書に『地図が読めないアラブ人、道を聞けない日本人』(小学館)、「アラビア語が面白いほど身に付く本」(KADOKAWA)、「足して2で割れない日本とアラブ世界~深層文化のアプローチ~」(デザインエッグ)など。