ブラジル日系社会『百年の水流』再改定版 (4) 外山脩
南樹のこだわり ところで、南樹が筆者の最初の取材の折、強調したかったのは、叙勲のデタラメさもさることながら、それ以上に「水野、上塚、平野に関する通説の間違い」であったと思われる。筆者が「咀嚼できなかった」部分である。 あの時、南樹はどう間違っている、と言いたかったのだろうか? 実は彼は、受勲辞退の前後に、二卷の著書を再版している。 戦前に彼が著した『伯国日本移民の草分』と『埋もれ行く拓人の足跡』だ。再版の時期は前者が一九六七年、後者はその二年後である。 前者は、南樹が笠戸丸移民の挺進役をつとめた時の体験・見聞記である。後者は、この国に於ける日本人パイオニアの足跡を丹念に掘り起こしている。 この二巻を読むと、前記の通説とは異なる事実があったこと、もっと多くのパイオニアがいたことが判る。 特に『埋もれ行く……』では、それが詳しく紹介されている。その足跡は実は笠戸丸より遥か百年以上も前から印されていたのである。 さらに笠戸丸の前後には水野、上塚、平野以外にも多くの日本人が、ブラジル入りしている。 本の内容から判断すると、百年以上前からの人々は前史を、笠戸丸前後の人々は歴史の草創期を、それぞれつくった━━と観てよかろう。 南樹は『埋もれ行く……』を再版した一九六九年「さらに八巻を執筆、計十巻の南樹全集を完成させる」と言い出した。途方もない話だが、パイオニアに関して知る限りを書き遺したかったようだ。 彼自身、そのパイオニアの生残りであり、執筆家でもあった。従って、この仕事には適任であった。しかし、すでに九十一歳、ソコヒを患い視力が衰えていた。 以下は筆者の推定である。 南樹は(自分も含め)パイオニアのことが忘れられて行くことを寂しがっていた。一方で、一知半解の知識で、誰々は代表的パイオニアである、偉人である……といった類いの評価を決めてしまう世の軽率さを怒ってもいた。だから真実はどうであったか、詳細を世間に知らせたかった。それが人生最後のこだわりであった。 受勲辞退、その折の水野、上塚、平野に関する通説の否定は、そのこだわりの一部噴出であった……そんな気がする。 前史(上) 南樹全集は、やはり実現しなかった。翌年、本人が永眠したのである。九十二歳だった。 しかし既刊の二巻だけでも、興味深い話が数多く盛られている。その内容に、ほかの諸資料も加えて、前史と草創期の概略を、以下に紹介する。 ブラジルが、未だポルトガル王室支配下の植民地だった頃のことである。 一八〇三年の暮れ、大西洋岸南方の入り海デステーロ=現在のフロリアノポリス=にロシア軍艦が二隻、入港した。軍艦といっても木造、帆船の時代であるが……。 これに何故か……四人の日本人が乗っていた。仙台伊達藩領内の水主(かこ)で、津太夫、儀平、左平、太十郎であった。 年齢は最年長で六十歳近く、最若年でも三十歳を越していた。 日本はまだ徳川幕府の鎖国下、明治維新の半世紀以上も前であり、そんな時代、どんな事情で、想像を絶する地球の反対側に、彼らは現れたのだろうか━━。 その十年前、一七九三年。 仙台藩石巻の港から材木や米を積んで、江戸に向かう若宮丸という小帆船があった。沖船頭、舵取り各一名のほか水主一四人が乗り組んでいた。 この若宮丸が、嵐に遭って北へ北へと流され、北海の一僻島に漂着、住民に救助された。その後、島を領していたロシアの役人の庇護を受け、長くシベリア、バイカル湖の湖岸の都市イルクーツクで生活、やがて帝都ペテルブルグに送られ、皇帝への謁見を許された。 皇帝は、その時、彼らを利用、鎖国中の日本へ国交を求める使節を派遣しようとしていた。漂流民を連れて行けば、為政者である幕府との交渉がし易くなる━━とふんでいたのだ。一八〇三年六月、皇帝は使節と前記の二艦を出発させた。 使節の名はニコライ・ペトロヴィッチ・レザノフである。普通「レザノフ」で知られる。漂流民一六人の内、死者やロシアへの残留希望者を除いた水主四人が乗船した。 その二艦が大西洋経由で航海中、暴風雨に遭い、船体が損傷した。修理のため寄港したのがデステーロだった━━と、そういういきさつであった。 二艦は十二月から翌年二月まで碇泊、その後、太平洋を経て一八〇四年九月、長崎港に入った。 四人は、全く数奇な運命によって、十一年の歳月をかけて「地球をひと回りした」ことになる。当時の日本では浦島太郎なみであった。(つづく)