「明るい門出」ではなかった「大宝元年」元日の朝賀
藤原宮跡の発掘現場。日本の夜明けとなる朝賀がここでくり広げられた。しかし蓋を開けてみると……(筆者撮影)
藤原宮跡(奈良県橿原市)の大極殿院南門の南側で、整然と1列に並ぶ7基の柱穴が2016年に見つかった。元日朝賀の式典の様子を知る手がかりになると期待されているが、それは、『続日本紀』大宝元年(701)春正月の次の朝賀にまつわる記事と、そっくりだったからだ。すなわち、 「大極殿院南門(原文は正門=せいもん=)に烏形(うけい、金銅製の3本足の烏)をあしらった旗(幢=はた=)を立て、左には日像(にっしょう)、青龍、朱雀の旗(幡=はた=)、右は月像(げっしょう)、玄武、白虎の旗を立てた」 とある。 ここにある青龍は東、朱雀は南、玄武は北、白虎は西を意味する神獣たちだ。中央の烏は、天皇家の象徴と考えられている。きらびやかな朝賀の演出である。 そもそも「朝賀」は、中国の漢の高祖が始めた儀礼で、日本では7世紀に取り入れられた。『日本書紀』大化2年(646)条に「賀正の礼を終えて、改新之詔[かいしんのみことのり]を告げた」という有名な一節があり、これが最初の朝賀と考えられている。 ただ、大宝元年の朝賀は特別だったようだ。『続日本紀』に「文物の儀、是に備れり」とある。学問、芸術と、新たな統治システムが、この時定まったと言っているのだ。事実この前年の6月、大宝律令が撰定されている。律令の本格的な運用が始まろうとしていたことになる。今回の柱穴の発見によって、史学界は『続日本紀』の記事の信憑性が高まったと判断し、大宝元年が制度史上の一大転換期だったことを再確認し、称えていくことになるのだろう。 しかし、ひとつ釈然としないことがある。これよりも早い時期に、統治システムは刷新されていた可能性が高いからだ。 大宝元年8月の『続日本紀』の記事に、律令は「浄御原令(きよみはらりょう)を基本とした」とある。すなわち大宝律令は天武天皇の時代に定められた諸制度をベースにしていたと言っている。とすれば、実際には浄御原令こそ、画期的な事業だったのではあるまいか。 時間を少し溯り、『日本書紀』の記事を追ってみよう。 天武天皇は壬申の乱を制し、即位すると、皇族だけで実権を握り(皇親政治)、大鉈を振るって旧豪族から既得権益を奪い、改革事業に奔走した。 天武九年(680)11月、天武天皇は百官に対し、「国と民を豊かにする方法があれば、それを申し述べよ」と命じた。提案が理に叶っていれば、法律にしようという。翌年の2月にも「律令を定め、法式を改めようと思う。分担して作業に取りかかるように」と、詔している。これが浄御原令で、天武天皇崩御ののち、持統3年(689)6月に、多くの中央の諸官庁に令(行政法)を分け与えた。また閏8月には、各地の国司に戸籍を作るように命じている。さらに持統4年(690)秋7月に、天武の遺児・高市皇子(たけちのみこ)が太政大臣に任命され、全権が委ねられると、人事と諸制度が整えられていった。律(刑法)は間に合わなかったが、令と戸籍は、すでにこの時点で整っていたことになる。 問題は、天武天皇の業績が大宝元年の詔の中で認められていたのに、その後藤原氏が権力基盤を固めていくと、次第に無視されていくことなのだ。養老3年(719)10月、元正天皇は「天智天皇の時代(天武即位の直前)に、すでに律令は完成していた」と言い出している。ここから「律令を整えたのは天智」という考えが定着していったのである。 浄御原令と大宝律令を比べれば、一般的には後者に対する評価が高い。しかし、「反動勢力や不満分子を説得し(時に力で組み伏せ)利害を調整して納得させる」という改革事業最大の難関を突破したのは天武の浄御原令であり、その後の微調整を経て、大宝律令が登場したとみなすべきだ。
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関裕二