過労で意識を失い、リハーサルでは右膝を捻挫し病院へ…「昭和の歌姫」中森明菜の「紅白」
森光子が明菜に「では中身のマッチはいかがですか?」と……
久保田一竹デザインの古代の衣装をまとい20センチの厚さのぽっくりを履いたマッチを見つめる明菜に、司会の森光子が明菜に向かって「マッチのファッションいかがですか?」と聞いた。明菜「神様みたいですね」。「では中身のマッチはいかがですか?」の質問には明菜、笑ってごまかすも、すかさず森が「愚問でした」と言った。 翌年1月には聖子が「今度生まれ変わったら絶対一緒になろうと約束した」「愛し合って別れるのです」と涙の別離会見を開いたと思いきや、1週間後に神田正輝との交際宣言、さらに4ヵ月後の6月には結婚して歌手を休業。「紅白」で復帰した。 明菜&マッチコンビは「歌謡大賞」が『大将』でマッチ、「レコード大賞」が『ミ・アモーレ』で明菜と仲良く分け合ったのである。「紅白」では「華麗なるヤング・エレガンス」という対決キャッチフレーズの元、マッチの同僚、トシちゃんこと田原俊彦を相手に歌っている。 翌年昭和61(1986)年、4回目の「紅白」。人気投票は昨年まで首位だった森昌子が結婚して引退したため、『天城越え』発売の年の石川さゆりが、初の1位に。明菜は相変わらず2位をキープし、そのあとに小林幸子、4位には美空ひばりが名を連ねた。男性陣の1位は変わらず五木ひろし、以下2位・森進一、3位・細川たかし、4位・北島三郎。そしてチェッカーズ、安全地帯、7位でマッチが続いた。 この年明菜は『Fin』で「歌謡大賞」を、そして「紅白」直前の「レコード大賞」では『DESIRE』で2年連続受賞を決め、前年に引き続き全歌手のレコード売上1位に輝く。 「レコ大」から「紅白」会場に向かった明菜。この年のオープニングの入場行進は、歌唱する順に男女がステージ中央奥から登場してきて中央でがっちり握手といった形だった。その年の明菜の歌順はベテラン、ジュリー・沢田研二を相手に前から6番目。トップバッターの少年隊、荻野目洋子から登場してきたが、大賞をとった明菜が間に合わない。ジュリーがひとりで中央から登場、総合司会の千田正穂アナウンサーが「中森明菜さんまだ到着していません」と言ったところで明菜が上手ソデから走り、何とかジュリーの隣に滑り込んでセーフ。 ◆「ベストテンの女王」と呼ばれ…… 翌62(1987)年は、「日本有線大賞」最多リクエスト歌手賞を5年連続受賞したり、この年発売の『TANGO NOIR』、『BLONDE』、『難破船』の3曲がいずれもこの年の「オリコン」年間シングルチャートでトップテン入りを果たし、アーティスト・トータル・セールスも歴代最多の4度目(1983年、1985年、1986年、1987年)となる首位を獲得。 「紅白」の人気投票の2位も変わらず、その中から名曲『難破船』でチェッカーズを相手に5回目の出演を果たし、堂々とした歌唱を披露した。 さらに63(1988)年5月、そうである、今年新たによみがえった『TATTOO』がリリースされた。「オリコン」でも1位。これで連続1位記録が15曲目となった。TBS系『ザ・ベストテン』では、1位週数69週を記録、番組史上最多回数となっていた。さらに番組内での1位獲得曲数が最多の17曲を誇って「ベストテンの女王」と呼ばれていた。 そして、64(1989)年。『TATTO』に続いて11月に発売された『I MISSED “THE SHOCK”』で「紅白」6回目の出場となったが、「オリコン」では最高位が3位に。とうとう首位記録が途切れた。この年「紅白」に初出場した工藤静香、さらに先日亡くなった中山美穂ら次の世代のアイドルたちが台頭してきたのだ。 その頃、マスコミは「明菜の体調が悪い」「鬱っぽい」などと書き立てていたものだ。この年「紅白」で一緒になった民謡歌手の岸千恵子は、「みんなそんな風に言っているけれど、全然違ったよ。礼儀正しくてやさしい子だった。私は民謡だから、紅白の中でひとりポツンと浮いてる感じだったんだけど、反対に明菜ちゃんが気使って、声かけてくれたりしてね。でも明菜ちゃんも一人だったね」と岸は亡くなるまで“明菜讃美”を変えなかった。そして翌年、昭和が平成になる。