「日本文化の特徴は…」。主語が大きい文化論を語ることの「落とし穴」
日本人は聴覚が特殊?
文化論がやや苦手だ。 ネットで検索してみるといくらでも出てくる。日本語と英語、日本と西洋などの相違点をざっくりと解説する記事やブログには切りがない。西洋ではこうである、一方で日本ではこうである、あるいは西洋人はこうである、一方で日本人はこうである。そしてかなり信憑性の乏しい説が確固たる事実のごとく繰り広げられる。中には面白く読めるものもあるが、どれを読んでも最終的に違和感を覚える。必ずしもそうとは限らないだろう、とか、そこまで一括りにしちゃだめだろう、とか、思わず内容に条件をつけたくなる。国名や人種ほど大きな主語の話になってくると、意味のあることを何も言えない。 記事ならクリックせずに素通りするまでのことだが、同じような話に現実で出合うと反応に困る。以前、友人に呼ばれてあるビジネスのレセプションに出席した。僕が着いた頃にはイベントはすでに始まっていて、会場のあちこちで客が小さなグループに固まって立食したり静かな声で会話したりしていた。辺りを見回したが友人は見当たらず、他に知り合いもいないようなので、とりあえずカウンターで飲み物をもらい壁際に場所を確保し、こっそり人間観察を楽しむことにした。 「Excuse me」 しばらくして、英語で声をかけられた。面識のない男で、同い年か、少し年上に見える。彼は名刺を取り出し、自己紹介をしながら渡してくる。国内企業のグローバル展開を支援するコンサルタントだそうだ。僕も鞄から名刺を出す。大学のものだ。 「大学の先生なんですね。ご専門は?」 文学をやっています、と僕は答える。授業で学生と一緒に小説を読んだりしていると説明する。 「なるほど、どこの小説ですか」 いちおう日本のを、と淡々と返事をする。 「おぉ」ここで男はさも珍しいものを発見したように相好を崩す。「海外の方に我々の文学にご興味をもっていただけるのは誠にうれしいです。でもさぞ大変でしょう。日本の文学って、ちょっと特殊じゃないですか」 嫌な予感がする。今までの経験から、話の向かう先が少し予測できる。僕は相手の発言を肯定も否定もせず、確かに文学はなかなか簡単に理解できるものではないですね、と曖昧に答える。その回答をよそに、男は話を進める。 「こういう研究結果がありますよ。日本人は、聴覚が特殊ですって。たとえば虫の声があるでしょう。他国では単なる喧しいノイズとされていますが、私たち日本人には、音楽のように美しく聞こえる。日本文学は当然、その特殊な感性の上で成立した芸術ですから、外から見ると大変分かりにくいでしょう」 虫の声の話か。これは確か、以前も何度か熱心に語られたことがある。日本人の聴覚の特異性と詩歌の関係性を丁寧に説明してくれている男の声を聞き流して頷いている間、僕は別のことを考えている。アメリカ文学の専門家と名乗った日本人に、アメリカ文学はアメリカ人特有の感性を持たない者には大変分かりにくいだろう、と、常識のように語ることはできるだろうか。うまく想像できない。 * コオロギという言葉が耳に入って、幼い頃の記憶がふとよみがえる。故郷の夕方だ。おじいちゃんはベランダのロッキングチェアに座ってタバコを吸っている。家を囲む森から無数のコオロギとキリギリスの鳴き声が降り注いでくる。アパラチア山脈の麓の、晩夏の象徴だ。ある時、郷愁が湧いてきて、その音がインターネットのどこかに落ちていないかと探してみた。動画配信サイトに、同じ地域の住民が庭で録音した2時間の動画があった。再生すると、画面は真っ暗で何も見えないけれど、パソコンのスピーカーから流れてきたのは、懐かしい虫の声だ。コメント欄には、同じくアメリカの南部を去った人からのメッセージが多数あった。実家の夏が恋しくなるとこの動画を流すとか、この動画をイヤフォンで聞きながら寝ることにしているとか。 話をまだ止めない相手の顔を一瞥する。この思い出を伝えてもいいかもしれない。世界中に虫の声を楽しんでいる人がいる、と言ってみたらどうだろう。しかしただの雑談だし、あえて否定するまでもないのではないか。この人は新しい情報を求めているようには見えない。 相手の話を特に気にする必要はない。なぜなら、こういう相手には悪意も害もないからだ。けっして外向的な性格ではない僕はこのような大人数のイベントに来ると緊張するし、自分の独り言で満足できる相手が隣にいる限り社交的に振る舞うプレッシャーから免れるので、むしろ感謝の念を覚える。だが、このような場で生半可な文化論を繰り返し聞かされるのは、なぜだろう。