星野源「心が静かな時しか書けない文章」 新作エッセイで見せた「心の内側」を聞く
■希死念慮が浮かんだ時に気づいたこと ――〈列車の発車を待ちながら、座席に座ってできる仕事を黙々と続けつつ、ひとり生きている〉という文章がすごく好きだったのですが、エッセイを書くこともひとり、孤独な作業だと思います。書くことを通じて、得られるものはありますか。 星野:エッセイを書くって、セラピーに似てるなと思うことがあります。自分と向き合うのってしんどいけど、書くことで自然と向き合うことができる。そうすると、自分の頭に浮かんでいるこれは雑念なのか、心の底から思っていることなのか、誰かにアピールしたい何かなのか、取捨選択ができるようになる。余計なものを捨てられる。たとえば「出口」というエッセイでは、僕自身が希死念慮が浮かんだ時のことについて触れています。でも、そういう思いがふっと浮かんでしまったときの感情を突きつめていくと、僕は命を絶ちたいわけではなく、もっといい状態になりたいと願っているだけなんだよな、と気づいた。でも、どうにもならないからしんどいんだよなあ、と。 ――〈無力感から全部をすっ飛ばして「死にたい」という言葉が浮かぶ〉〈でも、そんなのしょうがないと思う〉というところで、けっこう泣きそうになりました。 星野:切羽詰まっているときって、それしか選択肢がないように感じられてしまう。だけどどんな状況でもそれ以外の出口がある、って思いが自分の中にあることを、エッセイを書きながら発見したんです。あれは書けてよかったと思っています。 ■ターゲットは考えていない ――生きるのはつらいけれど、〈辛くないは、生きるの中にしかない〉という言葉に支えられる読者は多いんじゃないかと思います。本作を読んでいると、どこか許されたような気持ちにもなるんですよね。そういう読み心地を読者が受けとってくれたらいいな、みたいな想いはありますか? 星野:それが、あんまりないんです(笑)。『そして生活はつづく』や『よみがえる変態』は、読んだ人が笑ってくれたらいいなとか、こういうくだらないことを真剣に考えるのっておもしろくないですか、っていう投げかけが多少なりともあったんだけど、『いのちの車窓から』は特になくて、読者のターゲット層も考えていません。ただできちゃった彫刻があるので、どうぞ!みたいな感じ。でも、例えば僕のエッセイを読んで、励まされたり支えられたりしたという人がいたら、それはとても嬉しいです。やったーって思う。でもそれを目的にはしてないというか。『いのちの車窓から』の文章って、心が静かなときに書けるんです。あまり自分の感情を書かないようにしていて、もちろん、嫌だったことや嬉しかったことを、事実として書くことはあるんですけど、そのときどんな想いでいたかを克明に文章化することはしない。たとえば伊丹十三賞をいただいたときのエピソードでは、フードスタイリストの飯島奈美さんからしてもらったことが、最後にわかった瞬間に終わるじゃないですか。 ――ものすごく粋だな、と思いました。 星野:そのわかった瞬間に自分はどう思ったのか、は書かない。すると、読者の方が僕の目線----車窓と同じ景色を眺めることになる。僕が遭遇した出来事を疑似体験する感じというか。 ――でもそれが、結果的に、読み手によりいっそうの感慨をわかせる。 星野:書く時の感覚は、盛るの反対で、とにかく引くって感じです。遭遇した出来事を書きながら、自分のエゴの部分を削っていく、みたいな感じです。 ――できるだけ色をつけずに、彫刻のように。 星野:そもそも、自分の本音を文章にするのって、たぶん不可能なんですよね。どんなに文章が上手い人でも、無理。表現しようと思った瞬間、どうしても作為が入ってしまう。どんなに真に迫ったニュースも真実にはなれないのと同じように。本当のことっていうのは、その瞬間にしか存在できない。だけど、自分が経験したことや、そのときの心の動きに限りなく近い感触を、どうにかして伝えることはできないだろうかと、試行錯誤していたのが本作のような気もします。