「軍神につづく横山少年団」…真珠湾で戦死した兵士に憧れる少年たち 命の尊さを訴える椋鳩十も時局にはあらがえず
自然界に生きる動物たちを通し、生命の尊さをたたえる名作を紡いだ鹿児島ゆかりの児童文学作家、椋鳩十(1905~87年)は今年、生誕120年を迎える。鹿児島県内や故郷の長野県喬木村では、業績を顕彰する企画展が開かれ、再評価が進む。戦後80年の節目に、戦時の厳しい言論統制下で書かれた作品を中心に、椋文学と戦争について考える。(連載「つなぐ命の賛歌~椋鳩十生誕120年戦後80年」③より) 【写真】横山少年団取材時の写真。後列右から2人目が椋鳩十(久保田里花さん提供)
動物を主人公にした子ども向けの作品に創作の場を得た椋鳩十は、雑誌「少年倶楽部」に1938~43年、15編の作品を発表した。「大造じいさんとガン」「月の輪熊」「栗野岳の主」などはこの頃の作品だ。 当時の「少年倶楽部」はすでに戦時色に染まり、日章旗を掲げる子どもや笑顔の兵士が表紙を飾る。掲載作品も愛国調、軍国調のタイトルが並び、生命の尊さを描く椋の作品は異色だ。 「嵐を越えて」には兵隊が登場するものの、南洋の水兵と日本の家族をツバメが結ぶ優しい物語。軍国主義になびかず、勇ましい話は一切書かなかった。 しかし、姉妹誌の「幼年倶楽部」44年1月号に、本名・久保田彦穂の名で掲載された文章が戦後、物議を醸すことになる。 ■ ■ 「軍神につづく横山少年団」。真珠湾攻撃で戦死した鹿児島市出身の横山正治少佐に憧れ、地元の少年たちが兵隊になることを目指して心身を鍛える活動を伝える。 「ぼくらも早くだい二だい三の横山少佐となって、日本をまもるのだと、だんゐんのみんなは、こころにつよく思ふのです(中略)ああ、たのもしい少年たち、さあ、そのうでで、しっかりと日本をまもってください」
命の尊さを訴えてきた作家も、時局にあらがえなかったのか。児童文学者の鈴木敬司氏は、椋への追悼文で執筆動機を尋ねたことを回想し、「あの時代はねえ…、とにかく生きることに精いっぱいで…」と苦渋に満ちた表情で椋が答えたことを記している(「椋鳩十研究-戦時下の軌跡」)。 ■ ■ あの時代とは-。学校は軍の統制下にあり、軍事教練が行われた。特高警察による拷問など思想弾圧も激化。43年には、かつて椋も所属した詩誌「リアン」の同人が共産主義者として摘発された。特高刑事が嗅ぎ回っていると聞いた椋は、大量の書類を焼却した。 戦後、椋の元に見知らぬ女性から封書が届く。中身は「山窩(さんか)調」を称賛する里見弴の椋宛ての手紙。警察関係だった女性の父親が所持していたという。 デビュー作を評価、激励する作家や識者から椋に届いた多くの便りは、この里見のものしか残っていない。椋は引っ越しを重ねるうちに紛失したと思い込んでいたが、実際は押収されたのではないか。椋の孫の久保田里花さん(53)は「知らぬ間に特高の手がすぐ近くまで迫っていた」と推測する。
椋は共産主義者や活動家ではない。長崎県の軍需工場に女生徒を引率し、教職を全うした。横山少年団取材時の写真には、椋のほか複数の大人が写る。教師として拒める仕事ではなく、椋鳩十の名を使わないことが、せめてもの抵抗だったのだろう。 ■横山少年団 鹿児島市下荒田町出身の横山正治少佐は、真珠湾攻撃(1941年)で特殊潜航艇「甲標的」搭乗員として戦死した「九軍神」の一人。東條英機首相が実家を慰問し、英雄視された。近隣の少年たちは横山少佐に倣って国に尽くそうと少年団を結成し、生家前の清掃や心身の鍛錬に励んだ。一周忌には、古関裕而作曲の「あゝ軍神横山少佐」が演奏されたことを当時の鹿児島日報が伝えている。
南日本新聞 | 鹿児島