伊賀上野地震、被害記す文書発見 奈良の寺、余震で報告遅れ
幕末の嘉永7(1854)年に三重県や奈良県周辺で千人を超える死者を出したとされる「伊賀上野地震」の被害を伝える古文書が、奈良県山添村の観音寺で26日までに見つかった。余震が続く様子や、寺の被害状況が記されており、調査を担当した奈良大の村上紀夫教授(日本文化史)は「当時の混乱が生々しく伝わる貴重な資料だ」と受け止めている。 文書は、山添村教育委員会と奈良大(奈良市)の史学科研究チームが共同で調査。観音寺に保管されていた江戸時代から近代の古文書369通を調べ、地震の記述を見つけた。 チームによると、文書は総本山である京都の仁和寺に被害を報告するための書状の下書きとみられる。書状によると、地震は「六月十四日夜半頃」に発生。人的被害の記載はないが、本堂は屋根瓦が落ちて傾き、蔵や長屋といった周辺施設は、石垣が崩れて残らずがれきになったと報告。地震発生から約2カ月後に書かれており「余震が続き、報告書を書くのが遅れた」とする内容も記されていた。