ノートルダム寺院はなぜ燃えたのか、そして、なぜ世界に衝撃を与えたのか
東京にもノートルダム寺院
言えば驚かれるかもしれないが「ノートルダム寺院」は世界中に山ほどある。 「ノートルダム」はフランス語で「聖母」を意味する。「われわれの貴婦人」と訳したテレビ局もあったがそれは直訳すぎる。フランス語圏では当然多く、他の地域でも「聖母教会」とか「マリア聖堂」と呼んでいるのはフランス流にいえば「ノートルダム」なのだ。だから東京にもある。日本のカトリックの中心たる東京カテドラル聖マリア大聖堂も、フランス風には「ノートルダム寺院」だ。 それでも、ノートルダムといえばパリということになっているのは、パリという都市の文化的な力でもあり、この寺院がその中心部に建ちつづけてきたからでもあり、多くの観光客の目に触れるからでもある。たしかに優美な、僕も好きな建築の一つだが、建築史学的には、パリ郊外にあるシャルトル大聖堂の方が価値があるようだ。ゴシックの特徴としての高さがあり、内部のステンドグラスは「シャルトルブルー」と呼ばれてヨーロッパの美術史家の賞賛を集めている。
パリは別格
パリという都市は、フランスの首都というより、ヨーロッパ全体の、いや一時期はアメリカや日本も含めて、世界全体の文化首都であった。その意味で「花のパリ~か、ロンドンか」という歌のような文句は間違いである。パリは、建築学的に見ても、都市計画的に見ても、ロンドンやベルリンやマドリードなどとは比較にならない、まさに「花の都」であり、ヨーロッパでも、ローマとともに「別格」なのだ。 つまりパリのノートルダム寺院は、ヴィクトル・ユーゴーの小説や、ナポレオンの戴冠式で知られるばかりでなく、フランス革命の銃声も、オスマンのパリ大改造も、マネやモネやルノアールの印象派旗揚げも、ドガが描いた踊り子も、ユトリロが描いた街並みも、エリック・サティのピアノの旋律も、ヘミングウェイやフィッツジェラルドの放蕩も、ジャン・ギャバンの映画も、エディット・ピアフの歌声も、ヒトラー支配下の政権もそこからの解放も、サルトルが論じた実存主義も、カルチェラタンの五月革命も、このモダンな時代の文化首都で踊る人間たちを眺めながら存在しつづけたのである。それが今回、世界中の人々の哀しみの共感を集めた理由であろう。 建築は、大きな不動の空間と長い風雪の時間を共有することによって、さまざまな文化現象と人々の心象とに共振しながら存在する。