街づくりも食べ物も「本物を」 公害経験の水俣から福島へメッセージ
これら施策の礎となったのが、元市職員・吉本哲郎さんが提唱する「地元学」と呼ばれる考え方だ。「ないものではなく、あるものを探す。地域や人の力を引き出す」と吉本さんは説明する。 自分たちで行う「自治力」を高めるため、足元の自然やまちを調べることを促す。具体的には、地域資源を探す「地域資源マップ」や水の経路図作りを進めた。足元からの見直しが、市民同士の対話の機会を増やし、市政計画の策定も市民が主体となって進めたという。また、水俣「地元学」の本質である「水俣病」に市民が正面から向き合ったため、対話による「もやい直し」へつながる側面もあった。 水俣市民や行政は、新しい取り組みに挑戦した。しかし認定患者問題は終わっておらず、「教訓」も進行形だ。吉井元市長はさらに話す。「もやい直しは永遠の課題で、常に努力すべきもの。『水俣病は忘れたい』と思う市民も含め、対話を続けていくことが重要」と話す。
水俣病語り部ともう一つの「顔」
水俣病は公式確認から58年を経て、「次世代への伝承」も大きなテーマとなっている。水銀ヘドロで汚染された水俣湾は埋め立てられて公園に変わり、風景も一変した。 埋立地の隣にある水俣病資料館に入ると、まず目をひく大きな写真に出会う。2人の漁師が笑顔で海辺に立つ。杉本栄子さんの息子の、肇さん(53)と実さんだ。 「岐路は小学5年生でした」。肇さんは話す。両親がそろって水俣病で倒れ、入院した。祖父母もすでに水俣病にかかっていた。長男の肇さんが3か月間、兄弟4人の面倒をみた。責任は重く、親への反発心も生まれた。小学校前の幼い2人は、いつも「サロンパス」を握り締めて寝ていた。理由は答えなかったが、3人目の弟から「母ちゃんの匂いがすっけんたい」といわれた。 「水俣病患者の家族」という事実を避けるように、高校卒業後は約15年間東京で働き、水俣出身だと周囲に話すことはなかった。しかし90年代に水俣に戻り、家族で漁を始めた。無添加で安全性にこだわったちりめんじゃこなどを漁とする。 栄子さんに「何が苦しかったか」と聞いたことがある。「差別が苦しかった」と答えた。病気で動かない体より、もっとつらい体験と戦っていたことを知った。 肇さんは、栄子さんが亡くなった08年、遺志を継いで水俣病の語り部を始めた。熊本県では全ての小学5年生が、水俣を訪問して水俣病を学ぶ。同じ年齢のときの体験を、語りかける。 肇さんには、もう一つの顔がある。上半身裸でカラフルなメイク姿。南洋民族を思わせるかぶりものや腰巻。100円ショップで買いそろえたという。「やうちブラザーズ」という親戚(家内=やうち)3人のお笑いトリオだ。