街づくりも食べ物も「本物を」 公害経験の水俣から福島へメッセージ
食べ物でなった病気は食べ物で治す
無農薬栽培など食べ物への関心は、水俣病患者からも出ていた。 「食べ物でなった病気は、食べ物で治す」 69年に第一次訴訟の原告団に加わった杉本栄子さん(08年死亡、享年69歳)は、熊本大学の医師に「あなたの体は治せない」と告げられた。病気とつき合う覚悟が決まった。 杉本さん夫婦は、水俣病で漁が難しくなった上、生活の糧にと始めたみかん栽培の農薬散布で、病が悪化した。そのため、医者や薬に頼らない生活を続けた。自分の身体にあう薬草を使い、70年代から無農薬みかん作りを始めた。 90年代、「海を治療場」と位置づけ、船を新しくつくった。家族で船団を組み、漁を再開した。カタクチイワシを年間通じて獲り、ちりめんじゃことイリコを作った。 水俣病を契機に、関心が高まった無農薬栽培や自然栽培。お茶農家の松本さんと杉本さんは出会い、東京などで一緒に「本物」を販売することもあった。
「もやい直し」と「地元学」で街を再生
水俣では地域社会が崩壊状態となった。「被害者」である患者団体同士でさえ分裂を続け、交流がない状態が続いた。90年代、人間関係の再構築を「もやい直し」というスローガンで進めたのが、吉井正澄・元市長だ。 吉井元市長は、「もやい直し」に加えて、「先進的環境都市」ビジョンを掲げた。ただ、水俣はチッソを中心とした「工業都市」が大前提の土地柄。「環境モデル都市」へという市政の大転換は、市長就任前からゆっくり進められたという。与党・自民党議員と国内外の視察を重ね、議会内で「環境保全」の機運を作り出していった。 94年2月の市長就任直後、まずは水俣病の慰霊式で過ちを謝罪した。この謝罪で市の姿勢を示し、立場を越えた対話「もやい直し」を促した。未認定患者の政治的救済をめぐり、分裂していた患者団体に経済諸団体も加え、国への働きかけを実現させた。 「先進的環境都市」ビジョンについても、市民の対話・議論を積極的に促した。公募の市民によって環境基本計画が策定され、19種類ものゴミ分別が生まれた。 水俣市は、公害を逆手にとった環境への取り組みで2008年、国から「環境モデル都市」の認定を受けた。2011年にはNGO主催の環境都市コンテストにおいて「日本の環境首都」の称号も獲得している。